
「室町時代」と聞くと、金閣寺や銀閣寺を思い浮かべる人も多いでしょう。
でもこの時代は、ただの“戦いの時代”ではありません。
武士の政治が進化し、町や村の人々が力を合わせ、
日本の文化と社会の形がぐんと成長した、大きな変化の時代でした。
足利尊氏が開いた室町幕府を中心に、
足利義満の華やかな北山文化、義政の静かな東山文化が花開き、
「わび・さび」や「書院造」など、今に続く日本の美意識が誕生します。
また、農民が協力して村を治める「惣村」や、
商人が自治を行った「町衆」の活躍など、
“民の力”が社会を動かし始めたのもこの時代でした。
この記事では、室町時代の政治・文化・暮らしをやさしく解説し、
自由研究や授業に使えるテーマ、クイズも紹介します。
読めば、金色と銀色のきらめきの裏にあった、
人々の知恵と生き方がきっと見えてきますよ。
室町時代とはどんな時代?はじまりと終わりをわかりやすく解説
鎌倉幕府が滅びたあとの日本では、武士たちの間で新しい政治の形をめぐる争いが続いていました。
その混乱の中から登場したのが、**足利尊氏(あしかがたかうじ)**です。
彼は、鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇(ごだいごてんのう)といっしょに新しい政治を行おうとしましたが、理想と現実のずれから対立が生まれます。
尊氏は「武士の力で安定した政治をつくるべきだ」と考え、京都に新たな政府――室町幕府を開きました。
この「室町」という名は、将軍の家(御所)が京都の室町通りにあったことに由来します。
鎌倉時代のように東国(関東)ではなく、都・京都を中心とした政治が始まったのです。
武士が支える新しい政治の形
鎌倉時代では、将軍と御家人(ごけにん)が「御恩と奉公」の関係で結ばれていましたが、室町幕府ではさらに全国の大名をまとめる必要がありました。
そのため、各地の有力な武士たち(守護大名)を味方につけ、地方を任せる形に変わっていきます。
この政治の仕組みが「守護地頭(しゅごじとう)」から「守護大名(しゅごだいみょう)」への進化です。
幕府は京都で全体を見わたし、地方は大名が守る――つまり、中央と地方の協力で成り立つ政治だったのです。
しかし、同時にこれは「力を持った地方大名が独立しやすくなる」危うさもありました。
この構造が、のちの戦国時代へとつながっていきます。
鎌倉時代とのちがい
鎌倉時代は「東国武士の時代」でしたが、室町時代は「全国の武士をまとめる時代」でした。
さらに、天皇と将軍の関係も変わりました。
源頼朝が政治の実権を握った鎌倉幕府では、天皇は形式的な存在でしたが、室町幕府では「天皇と将軍の共存」が続きました。
足利義満(3代将軍)は天皇の権威をうまく利用し、自らを「日本国王」として中国(明)と外交を行いました。
このように、政治・外交・文化の中心が再び京都に戻ったのが室町時代の大きな特徴です。
室町時代の全体年表(概要)
年号 | 出来事 | 時代の流れ |
---|---|---|
1333年 | 鎌倉幕府が滅亡 | 武士政治が一度終わる |
1336年 | 足利尊氏が室町幕府を開く | 新しい武家政権が誕生 |
1392年 | 南北朝の統一 | 国の分裂が終わり、安定へ |
1397年 | 金閣寺の建立(義満) | 北山文化の象徴 |
1467年 | 応仁の乱の勃発 | 武士の内乱、戦国時代の始まり |
1489年 | 銀閣寺の建立(義政) | 東山文化の誕生 |
1573年 | 室町幕府が滅亡(織田信長) | 戦国時代から安土桃山時代へ |
このおよそ240年間、政治の中心は「足利将軍家」でした。
しかし、将軍の力は時代とともに弱まり、守護大名や地方の武士たちが独自に勢力をのばしていきます。
その結果、日本は「多くのリーダーが生まれる時代」――つまり、群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)の時代へと進んでいきました。
室町時代が長く続いた理由
室町時代が約240年も続いた理由は、政治・経済・文化のバランスが取れていたからです。
京都の室町幕府が「都の政治」を担当し、地方の守護大名が「各地の政治」を支えたことで、
全国の武士たちがある程度まとまりを保てました。
また、金閣寺や銀閣寺などに見られるように、文化の力が人々の心をつなげたことも大きいです。
混乱があっても、「日本の中心は京都」という意識が続いたことで、国全体のアイデンティティが保たれました。
クイズ①
室町幕府を開いた人物として正しいのはどれでしょう?
- 源頼朝
- 足利尊氏
- 足利義満
正解は 2 です。👉
足利尊氏は1336年に京都で室町幕府を開き、武士による新しい政治をはじめました。
その後、約240年にわたり足利将軍の時代が続いていきます。
室町時代の年表まとめと重要出来事の解説【政治・文化・戦い】
室町時代は、約240年にわたる長い歴史の中で、政治の変化、文化の発展、そして内戦と再生をくり返した時代です。
ここでは、主要な出来事を年表で整理しながら、それぞれの意味とつながりをやさしく解説します。
室町時代の主要年表
年号 | 出来事 | 意味・背景 |
---|---|---|
1336年 | 足利尊氏が室町幕府を開く | 鎌倉幕府の滅亡後、武士の新たな政権が誕生。京都に政治の中心が戻る。 |
1392年 | 南北朝の統一(義満) | 60年続いた天皇の分裂を解決。国の安定を取り戻す。 |
1397年 | 金閣寺の建立(義満) | 豪華な北山文化の象徴。政治力と芸術の融合。 |
1467年 | 応仁の乱の勃発 | 約10年続く全国的な戦乱。戦国時代の幕開け。 |
1489年 | 銀閣寺の建立(義政) | わびさびの美を生んだ東山文化の象徴。 |
1543年 | 鉄砲の伝来 | ポルトガル人が種子島に鉄砲を伝える。戦いと社会の変化が加速。 |
1549年 | キリスト教の伝来(ザビエル) | ヨーロッパとの交流が始まり、文化が多様化。 |
1573年 | 室町幕府の滅亡(信長) | 戦国の混乱を経て、安土桃山時代へ。 |
幕府のはじまり:足利尊氏と南北朝の争い
1336年、足利尊氏は京都に幕府を開き、武士による新しい政治が始まりました。
しかし同時に、後醍醐天皇が奈良の吉野に逃れて「南朝」を立てたため、国は南北朝時代に分裂します。
60年ものあいだ「天皇が二人いる」異例の時代が続きました。
3代将軍・足利義満が登場し、1392年に南北朝を統一。
これによって日本はようやく安定を取り戻し、文化や貿易が栄えはじめます。
黄金期:足利義満と金閣寺の時代
義満の政治は、力と美の両立でした。
彼は貴族と武士の両方をまとめ、経済を整え、外交にも力を入れました。
明(中国)との「日明貿易(勘合貿易)」を進め、日本の地位を高めたのも義満の功績です。
1397年、彼が建てた**金閣寺(鹿苑寺)**は、北山文化の象徴。
金箔に輝く建物は、政治的な威光と平和への願いを同時に表しています。
このころ京都では、能や連歌などの芸術も発展し、室町文化の黄金期が訪れました。
応仁の乱:平和がこわれた大戦乱
しかし、平和は長く続きませんでした。
1467年、将軍の後継ぎ争いが原因で**応仁の乱(おうにんのらん)**が勃発。
全国の武士たちが東軍と西軍に分かれて戦い、10年以上も混乱が続きました。
京都の町は焼け野原となり、幕府の力は大きく弱まります。
これをきっかけに、地方の守護大名たちが自分の土地を守るために独立。
「下剋上(げこくじょう)」――下の身分の者が上をたおす動きが広まり、
日本はついに戦国時代へ突入します。
終わりの時代:義政から信長へ
応仁の乱のころ、8代将軍・足利義政は政治を立て直せませんでしたが、
文化の面では「東山文化」を花開かせます。
彼が建てた銀閣寺は、金閣寺とは対照的に静けさと調和を重んじた建物です。
その後、鉄砲やキリスト教が伝来し、
日本はアジアだけでなくヨーロッパともつながる時代を迎えます。
そして1573年、織田信長が最後の将軍・足利義昭を追放し、
約240年続いた室町幕府は幕を閉じました。
室町時代のながれをまとめると
1️⃣ 幕府の成立と南北朝の統一(政治の安定)
2️⃣ 北山文化の発展(金閣寺・義満の時代)
3️⃣ 応仁の乱による分裂と戦国時代のはじまり
4️⃣ 東山文化・国際交流・幕府の滅亡
この流れの中で、室町時代は「権力の移り変わり」と「文化の成熟」が共存した、
日本史でも特にドラマチックな時代だったといえます。
クイズ②
応仁の乱が起きた主な原因として正しいのはどれでしょう?
- 足利義満の貿易失敗
- 将軍の後継ぎ争い
- 鎌倉幕府の再建計画
正解は 2 です。👉
応仁の乱は8代将軍・足利義政の跡継ぎ争いがきっかけとなり、
武士たちが全国に分かれて戦う大乱になりました。
室町幕府のしくみと足利将軍たちの政治|尊氏・義満・義政の功績
室町時代を語るうえで欠かせないのが、足利将軍たちのリーダーシップです。
初代の足利尊氏(たかうじ)が幕府を開き、3代の足利義満(よしみつ)が黄金期をつくり、
8代の足利義政(よしまさ)が文化の花を咲かせました。
それぞれの将軍が、日本の政治と文化をどう変えていったのかを見ていきましょう。
足利尊氏|混乱の中で生まれた新しい幕府
足利尊氏は、もともと鎌倉幕府の有力な武士でした。
しかし幕府に不満を持ち、後醍醐天皇と協力して幕府を倒します。
その後、理想と現実の違いから天皇と対立し、
1336年に京都で自らの政府――室町幕府を開きました。
尊氏が行った政治の特徴は、「武士の力による安定した国づくり」です。
彼は、鎌倉時代のように東国中心ではなく、京都を拠点としました。
これにより、貴族・寺社・武士が共存する政治が生まれ、
「中央と地方をつなぐ」新しい政治の形ができたのです。
尊氏の時代にはまだ混乱が多く、南北朝の分裂も続きましたが、
その土台づくりが後の発展へとつながりました。
足利義満|黄金の金閣寺と北山文化の時代
3代将軍・足利義満は、政治的にも文化的にも非常に優れた人物でした。
彼は南北朝の対立を終わらせ、1392年に日本を再び一つにまとめた功績を持ちます。
これは日本史の大きな転換点でした。
義満は、貴族と武士のあいだにあった壁をこわし、
経済や外交を整えることで、幕府を安定させました。
中国(明)との貿易「日明貿易(勘合貿易)」を始め、
金・銅・刀などを輸出して日本の富を高めたのも義満です。
そして1397年、**金閣寺(鹿苑寺)**を建てます。
金色に輝く建物は、ただの贅沢ではなく、
「平和と力を示す象徴」でもありました。
このころ生まれた文化は「北山文化」と呼ばれ、
能や連歌など、貴族と武士の美意識が融合した時代でした。
足利義政|混乱の中の美と「東山文化」
8代将軍・足利義政の時代になると、幕府の力は弱まりはじめます。
将軍の跡継ぎ問題をきっかけに、全国を巻き込んだ応仁の乱が起こり、
京都は焼け野原となりました。
しかし、義政はそんな混乱の中でも「美」を大切にしました。
彼が建てた**銀閣寺(東山殿)**は、金閣寺の豪華さとは正反対。
静けさと調和を重んじる「わび・さび」の美学が形になった建物です。
義政の時代に広まった文化は「東山文化」。
茶道・花道・水墨画・書院造など、
今の日本文化の原点といえるものが多く生まれました。
つまり、政治の混乱の中にも「心の豊かさ」が育まれたのです。
室町幕府のしくみ
室町幕府には、将軍を支える管領(かんれい)という役職があり、
これは今でいう「首相(副将軍)」のような存在でした。
地方では守護大名が力を持ち、
それぞれの土地の政治や軍事を担当しました。
この体制は、一見バランスが取れているようでいて、
実は「地方の力が強くなりすぎる」という弱点もありました。
それがのちに「戦国大名の時代」へと発展していくのです。
室町三将軍のまとめ
将軍 | 特徴 | 時代のキーワード |
---|---|---|
足利尊氏 | 幕府の創設・南北朝の分裂 | 建武の新政/武士の政治 |
足利義満 | 統一と外交・金閣寺 | 北山文化/日明貿易 |
足利義政 | 文化の成熟・応仁の乱 | 東山文化/わびさび |
三人の将軍を通して見ると、
室町幕府は「政治の混乱」と「文化の繁栄」をくり返した時代だったことがわかります。
クイズ③
金閣寺を建て、日本を南北統一した将軍はだれでしょう?
- 足利尊氏
- 足利義政
- 足利義満
正解は 3 です。👉
足利義満は、南北朝の分裂をおさめて国をまとめ、
金閣寺を建てて北山文化を発展させた将軍です。
応仁の乱と戦国時代のはじまり|なぜ武士の争いが止まらなかったのか
室町時代のなかごろ、日本全体をゆるがす大きな戦いが起こりました。
それが応仁の乱(おうにんのらん)です。
この戦いは1467年から約10年以上も続き、京都を焼け野原にしました。
その影響で幕府の力は弱まり、日本はついに戦国時代へと進んでいくことになります。
応仁の乱が起きた理由
応仁の乱の原因は、ひとことで言うと「後継ぎ争い」と「武士の対立」です。
当時の将軍は8代・足利義政(あしかがよしまさ)。
彼には後継ぎとなる男子がいなかったため、弟・義視(よしみ)を跡継ぎに決めました。
ところが、その後に子ども(義尚)が生まれたことで、
「弟に継がせるか」「息子に継がせるか」で対立が始まります。
さらに、全国の守護大名(地方の武士のリーダー)たちが、
それぞれ自分の勢力を広げようとして争いに加わりました。
京都では**細川勝元(ほそかわかつもと)**が「東軍」、
**山名宗全(やまなそうぜん)**が「西軍」を率いて戦いました。
つまり、最初は将軍家の身内争いだったものが、
しだいに全国の武士を巻き込む大内乱になっていったのです。
応仁の乱のようす
応仁の乱は、はじめは「京都だけの戦い」でした。
しかし、戦いが長引くうちに全国の武士たちが次々と参戦し、
西日本から東日本まで広がっていきました。
京都の町は火の海となり、
お寺・神社・家屋の多くが焼けてしまいました。
町に住む人々も逃げ出し、かつての都の姿は見る影もなかったといわれます。
また、戦いの中で「どちらの軍が正しいのか」がわからなくなり、
同じ一族どうしで争うことも珍しくありませんでした。
人々の心にも、「誰も信じられない」という不安が広がっていきました。
下剋上の時代へ
長い戦いの結果、幕府の力は完全に弱まりました。
将軍は名前だけの存在となり、地方の武士たちが実際の力を持つようになります。
これが**「下剋上(げこくじょう)」**――下の立場の者が上の者をたおす、という風潮です。
この流れの中から、のちに「戦国大名(せんごくだいみょう)」と呼ばれる新しいタイプのリーダーが登場します。
彼らは戦いの中で力を広げ、自分の国を守り、経済を発展させました。
戦国大名は、ただの武力だけでなく、領地の民を守る統治力も必要でした。
つまり、「戦国時代」とは単なる戦いの時代ではなく、
新しいリーダーが生まれる変革の時代でもあったのです。
応仁の乱が残した影響
応仁の乱が終わっても、平和は戻りませんでした。
各地で争いが続き、幕府の命令はほとんど届かなくなります。
しかしこの混乱が、結果的に文化の広がりを生みました。
地方ごとに大名が独自の文化を育て、
茶の湯や能、水墨画などが各地に伝わっていきます。
皮肉にも、「戦の時代」が日本文化の発展につながったのです。
また、町衆(まちしゅう)と呼ばれる商人や職人たちが力をつけ、
のちの「町の自治」「商業の発展」へと続いていきました。
応仁の乱と戦国時代の関係まとめ
観点 | 応仁の乱 | 戦国時代へのつながり |
---|---|---|
原因 | 将軍家の後継ぎ争い | 守護大名の自立化 |
結果 | 幕府の弱体化 | 下剋上の社会へ |
影響 | 京都の荒廃・文化の地方化 | 新しい大名の登場 |
応仁の乱は、単なる内戦ではありません。
この戦いによって「古い秩序」がくずれ、
「新しい日本」が生まれるきっかけになったのです。
クイズ④
応仁の乱で東軍の大将として戦ったのはだれでしょう?
- 細川勝元
- 足利義政
- 山名宗全
正解は 1 です。👉
細川勝元が東軍を率い、山名宗全が西軍を指揮しました。
この戦いは約10年におよび、幕府の力を大きく弱めることになりました。
室町時代の文化の特徴|金閣寺・銀閣寺・書院造に見る日本美の原点
室町時代は、政治の混乱が続く一方で、日本文化が大きく花開いた時代でした。
その中心となったのが、3代将軍・**足利義満(よしみつ)**による「北山文化」と、
8代将軍・**足利義政(よしまさ)**による「東山文化」です。
この二つの文化の対比は、今の日本人の美意識にも受け継がれています。
北山文化|金閣寺に見る「豪華さと国の力」
北山文化は、義満が南北朝を統一して政治を安定させた時代に栄えました。
彼は京都の北山に**金閣寺(鹿苑寺・ろくおんじ)**を建て、
その外観を金箔でおおい尽くしました。
この金色の建物は、単なるぜいたくではなく、
「仏の世界(極楽浄土)」を地上に表す宗教的意味を持っていました。
また、政治的には「日本が再び一つになったこと」を示す権力の象徴でもありました。
北山文化の特徴は、華やかで国際的なところにあります。
義満は中国(明)と貿易を行い、「日明貿易(勘合貿易)」によって
日本にも外国の芸術や工芸品が流れ込みました。
その影響を受けて、能や連歌(れんが)などが発展し、
貴族と武士がともに楽しむ文化が広まっていきました。
この時代の文化は、まさに「力のある者が美を育てる」ものであり、
政治と芸術がひとつになった時代でもありました。
東山文化|銀閣寺と書院造に見る「わび・さびの美」
一方で、8代将軍・足利義政の時代になると、
長い戦乱と混乱の中で、人々は静けさや心の豊かさを求めはじめました。
こうして生まれたのが東山文化です。
義政が建てた**銀閣寺(東山殿)**は、金閣寺のような派手さはなく、
木や土の自然な風合いを生かした落ち着いた建物です。
この静かな佇まいには、「華やかさよりも心の充実を重んじる」という思想――
つまり「わび・さび」の美が息づいています。
このころ、茶道・花道・水墨画などが広まり、
人々は「形よりも心」を大切にするようになりました。
また、東山文化の大きな成果として生まれたのが、
日本の住まいの原型ともいえる**書院造(しょいんづくり)**です。
銀閣寺の「東求堂(とうぐどう)」はその代表で、
床の間・畳・ふすま・障子などを備え、
静かに書を読み、客をもてなす空間として設計されました。
この建築様式はのちに茶室や武家屋敷、そして現代の和室へと受け継がれます。
つまり、東山文化は「心の豊かさ」と「暮らしの美」を形にした時代であり、
現代日本の美意識の出発点と言えるのです。
北山文化と東山文化のちがいまとめ
比較項目 | 北山文化(金閣寺) | 東山文化(銀閣寺・書院造) |
---|---|---|
将軍 | 足利義満 | 足利義政 |
建物の特徴 | 金色で華やか・豪壮 | 木と土の質感・静けさ |
美の方向性 | 権力・繁栄を示す | わびさび・調和を重視 |
関連する文化 | 能・連歌・貿易文化 | 茶道・花道・水墨画・書院造 |
意味 | 国の力と富の表現 | 心の平和と生活の美学 |
クイズ⑤
「書院造」という建築様式が生まれたのは、どの文化にあたるでしょう?
- 北山文化
- 東山文化
- 奈良文化
室町時代の社会と人々の生活|農業・商業・町衆の力
戦乱や政治の混乱が続いた室町時代でしたが、
その中でも人々の生活は力強く発展していきました。
この時代は、**「民の時代」**といわれるほど、
農民・商人・職人などが社会の中で存在感を高めた時代でもあります。
農業の発展と村のまとまり
室町時代の農業は、鎌倉時代よりも技術が進み、
米だけでなく麦・そば・あわなどの**二毛作(にもうさく)**が広まりました。
春と秋の二回作ることで、収穫量が増え、村の暮らしが安定します。
農具も改良され、鉄製のくわやかまが使われるようになり、
用水路やため池の整備も進みました。
これにより、日照りや洪水にも強い農業が実現します。
村の人々は力を合わせて農地を守り、
村のきまりを自分たちで話し合って決めるようになりました。
こうしたまとまりを**惣村(そうそん)**と呼びます。
惣村では「寄合(よりあい)」という会議が開かれ、
年貢の取りまとめや祭り、争いごとの解決を村の人自身が行っていました。
この仕組みは、のちの自治(じち)社会のはじまりともいえます。
商業と流通の発達
農業が安定すると、余った作物や布などを売り買いするようになり、
商業も発展しました。
都市では定期的に開かれる**定期市(ていきいち)**がにぎわい、
「六斎市(ろくさいいち)」と呼ばれる週6回の市も登場しました。
交通の発達も大きな変化です。
「伝馬(てんま)」と呼ばれる輸送制度が整い、
馬や船で全国に物が運ばれるようになりました。
海では瀬戸内海航路が活発になり、
港町・堺(さかい)や博多(はかた)が国際貿易の拠点となります。
堺は「東のヴェネツィア」と呼ばれるほど栄え、
商人たちは力を合わせて自分たちの町を守り、
自治組織を作って政治にも関わるようになりました。
このような人々を**町衆(まちしゅう)**といいます。
町衆の活躍と文化
町衆は、商業だけでなく文化の発展にも大きく貢献しました。
彼らは祇園祭(ぎおんまつり)などの行事を支え、
「町の力」で京都の伝統を守りました。
また、町衆は新しい価値観を社会に広めました。
それは「武士でも貴族でもなく、働く人々が町を動かす」という考え方です。
この自立した精神は、のちの**商人文化(しょうにんぶんか)**へとつながり、
江戸時代の「町人(ちょうにん)」の礎になりました。
室町の暮らしと身近な変化
庶民の家には、かまど・囲炉裏(いろり)があり、
衣食住も少しずつ豊かになっていきました。
衣服では木綿が広まり、食事には野菜や豆、味噌などが使われ、
いまの日本食の原型が見られます。
また、寺子屋のような学びの場や、職人による専門技術の伝承も始まり、
人々が「生きる力」を身につけていった時代でもあります。
村・町・人々の力が生んだ社会
分野 | 特徴 | 代表的な例 |
---|---|---|
農業 | 二毛作・鉄製農具・惣村 | 村人の自治と協力 |
商業 | 定期市・港町の発展 | 六斎市・堺・博多 |
社会 | 自治・町衆文化 | 祇園祭・町の自立 |
文化 | 庶民の知恵と美意識 | 茶道・工芸・書院造の普及 |
戦いが絶えなかった時代に、
民衆は力を合わせて暮らしを支え、社会を動かしていきました。
それが、のちの「民の力が国を支える」日本の原型となったのです。
クイズ⑥
室町時代に生まれた、村人たちが自分たちで話し合って村を治める仕組みを何というでしょう?
- 惣村(そうそん)
- 関所(せきしょ)
- 守護大名(しゅごだいみょう)
正解は 1 です。👉
惣村は、農民が協力して年貢の管理や争いごとの解決を行う自治的な村の仕組みです。
この精神が、のちの日本の地域社会へと受け継がれました。
室町時代の終わりと戦国時代への移り変わり|信長の登場まで
室町時代は約240年続いた長い時代ですが、その終わりは静かなものではありませんでした。
応仁の乱のあと、将軍の力は弱まり、地方の武士たちが次々と自分の領地を支配するようになります。
この時代に生まれたのが「戦国大名(せんごくだいみょう)」であり、
やがて織田信長・豊臣秀吉・徳川家康へと続く、戦国の群雄時代の幕開けでした。
幕府の力が弱まった理由
応仁の乱(1467〜1477年)は、10年以上も続いた大戦争でした。
その結果、幕府の権威は大きく揺らぎ、
京都の将軍が出す命令は地方にほとんど届かなくなってしまいます。
地方の守護大名たちは、自分の領地を守るために軍を持ち、
次第に「国一国をまるごと支配する」ようになります。
こうして彼らは、ただの守護ではなく、
戦国大名として力を持つようになりました。
彼らは自分の領地に独自の法律(分国法)をつくり、
農民から年貢を集め、兵を養いました。
つまり、小さな国をいくつも持つ日本が誕生したのです。
戦国大名の登場と特色
戦国大名は、それぞれの地域で独自の統治を行いました。
有名な大名としては、
- 甲斐(山梨)の武田信玄(たけだしんげん)
- 越後(新潟)の上杉謙信(うえすぎけんしん)
- 中国地方の毛利元就(もうりもとなり)
- 九州の島津氏(しまづし) などがいます。
彼らは家臣との信頼関係を重んじ、
合戦のほかにも外交・婚姻・貿易などで勢力を広げました。
また、商業の発展を支えるために城下町を整備し、
経済と軍事が結びついた社会をつくりました。
このころ、領民に対して「よく働く者は身分を問わず登用する」という考えも広まり、
「下剋上(げこくじょう)」――下の者が上に立つ時代が本格化します。
力さえあれば、誰でも上に行ける。
それが、戦国時代のエネルギーとなったのです。
鉄砲とキリスト教の伝来
戦国時代を象徴する二つの出来事が、
**鉄砲の伝来(1543年)とキリスト教の伝来(1549年)**です。
種子島(たねがしま)に伝わった鉄砲は、戦い方を大きく変えました。
それまでの弓矢や刀中心の戦から、遠距離攻撃が可能になり、
武士の戦術が一変したのです。
一方、ポルトガル人の宣教師フランシスコ・ザビエルが伝えたキリスト教は、
戦乱の中で人々の心の支えとなりました。
また、南蛮貿易によって絹やガラス、時計などの西洋文化が入り、
日本の社会や技術にも新しい刺激を与えました。
室町幕府の滅亡
戦国の混乱の中、幕府の存在は名ばかりとなり、
将軍の力はほとんどなくなっていました。
最後の将軍・足利義昭(あしかがよしあき)は、
織田信長の力を借りて一時的に政治を立て直そうとしますが、
信長が急速に勢力を拡大したため、
ついに1573年、信長によって京都から追放されました。
これが、約240年間続いた室町幕府の終わりです。
ここから、日本は「戦国の群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)」の時代へと突入します。
室町から戦国へ|変化のポイント
観点 | 室町時代 | 戦国時代 |
---|---|---|
政治 | 将軍中心・守護大名が支配 | 戦国大名が独立 |
社会 | 村や町の自治が広がる | 下剋上と新しいリーダーの登場 |
文化 | 金閣・銀閣・わびさび文化 | 茶の湯・城下町・鉄砲の普及 |
国際交流 | 日明貿易・禅文化 | 南蛮貿易・西洋文化の伝来 |
このように、室町時代の終わりは「古い日本」と「新しい日本」の境目でした。
戦国時代は単なる争いの時代ではなく、
自由な発想と新しい価値観が生まれた変革期でもあったのです。
クイズ⑦
最後の室町将軍・足利義昭を京都から追放し、
室町幕府を終わらせた人物はだれでしょう?
- 豊臣秀吉
- 織田信長
- 徳川家康
正解は 2 です。👉
織田信長は1573年、足利義昭を追放して室町幕府を滅ぼし、
戦国時代から安土桃山時代への新しい時代を切りひらきました。
自由研究に使える!室町時代を調べるテーマとアイデア集
室町時代は、戦いや政治の変化だけでなく、文化・生活・技術など、さまざまな分野で「今の日本の基礎」が生まれた時代です。
自由研究では、単に年号を覚えるのではなく、**「なぜそうなったのか」「今とどうつながるのか」**を考えることで、ぐっと深い学びになります。
ここでは、調べやすく発展させやすいテーマを紹介します。
① 建築とデザインの自由研究:金閣寺・銀閣寺・書院造のちがいを調べよう
おすすめテーマ: 「金閣寺と銀閣寺のデザインのちがい」「書院造のどこが現代の和室に生きているか」
金閣寺(北山文化)と銀閣寺(東山文化)は、どちらも日本の代表的な建築ですが、目的も美の方向性もまったくちがいます。
金閣寺は政治と権力の象徴、銀閣寺は心の静けさとわびさびの象徴です。
また、銀閣寺の「東求堂(とうぐどう)」は書院造の原型であり、
床の間・障子・畳など、現代の日本家屋につながる構造を持っています。
実際の写真や図面を比べたり、模型を作ったりして、**「美のちがいを可視化する研究」**にするのもおすすめです。
② 文化と芸術の自由研究:わび・さびのこころと茶の湯の発展
おすすめテーマ: 「東山文化の“わび・さび”とは?」「室町の茶道が今のマナーにどうつながっているか」
足利義政の時代、東山文化から生まれた茶道や花道は、
見た目の美しさだけでなく、人の心を整える文化でした。
千利休(せんのりきゅう)はこの思想を受けつぎ、「一服の茶に心をこめる」精神を広めました。
現代の「おもてなし」や「ミニマルデザイン」にも通じる考え方で、
実際にお茶をたてたり、茶室を観察したりして、**「体験型の自由研究」**にまとめるのもよいでしょう。
③ 生活と社会の自由研究:惣村や町衆に見る“協力のしくみ”
おすすめテーマ: 「惣村の自治はなぜ成り立った?」「町衆はどうして力を持てたのか」
農民が自分たちで話し合って村を治めた「惣村(そうそん)」や、
商人が協力して町を守った「町衆(まちしゅう)」は、
いわば中世の“自治組織”です。
当時の「寄合(よりあい)」のルールや祇園祭の記録を調べると、
人々がどうやって信頼を築いていたのかがわかります。
現代の自治会や地域活動との共通点を探すのもおもしろいテーマです。
④ 戦国への道:戦国大名のくらしと政治を比較研究
おすすめテーマ: 「戦国大名の領国経営を比べよう」「戦国の城下町のしくみを調べよう」
戦国大名たちは、戦いだけでなく、領地の発展にも力を入れました。
城下町の構造、税の仕組み、商業の発展などを比べると、
それぞれの大名の考え方のちがいが見えてきます。
武田信玄の「信玄堤(しんげんづつみ)」のような治水工事や、
上杉謙信の「義の戦い(よしのたたかい)」など、
社会のために動いた大名を取り上げるのもおすすめです。
⑤ 時代のつながりを見つける自由研究:鎌倉・室町・戦国をつなぐ
おすすめテーマ: 「武士のリーダーはどう変わった?」「文化の中心はどう移っていった?」
鎌倉時代から室町、そして戦国時代へ――
同じ“武士の時代”でも、政治の仕組み・文化・リーダー像は大きく変わりました。
その流れを年表や図にまとめると、
**「歴史の連続性を視覚化する研究」**になります。
自由研究のまとめ方のコツ
- 図・写真・年表を入れると一目でわかる
- 「調べてわかったこと」と「自分の考え」を分けて書く
- 現代との共通点を最後に入れると深みが出る
室町時代は、政治・文化・生活がすべて「変化の途中」にあった時代です。
その変化の中で人々がどう生きたのかを追うことが、
自由研究でもっとも大切な視点になります。
おさらいクイズ
クイズ①
室町幕府を開いた人物はだれでしょう?
- 源頼朝
- 足利尊氏
- 足利義満
正解は 2 です。👉
足利尊氏は1336年に京都で室町幕府を開き、武士による新しい政治をはじめました。
クイズ②
金閣寺を建て、南北朝を統一して国をまとめた将軍はだれでしょう?
- 足利義政
- 足利義満
- 足利尊氏
正解は 2 です。👉
足利義満は1392年に南北朝を統一し、北山文化を開きました。
クイズ③
村人たちが協力して話し合い、村のきまりを決める自治のしくみを何といいますか?
- 惣村(そうそん)
- 守護大名(しゅごだいみょう)
- 町衆(まちしゅう)
正解は 1 です。👉
惣村は、村人たちが話し合いで決めごとを行った自治的な村の仕組みで、のちの地域社会の原型になりました。
クイズ④
「わび・さび」の美しさを表し、書院造の代表例として知られる建物はどれでしょう?
- 金閣寺
- 銀閣寺
- 東求堂
正解は 2 です。👉
銀閣寺は足利義政が建てた建物で、東求堂を含む書院造の構成が見られます。静けさと調和の美を大切にしました。
クイズ⑤
最後の室町将軍・足利義昭を京都から追放し、室町幕府を終わらせた人物はだれでしょう?
- 織田信長
- 豊臣秀吉
- 徳川家康
正解は 1 です。👉
織田信長は1573年、足利義昭を追放して室町幕府を滅ぼし、戦国時代から安土桃山時代への道を開きました。
まとめ
室町時代は、日本の歴史の中でも大きな転換点となった時代です。
鎌倉時代の武士政権を引き継ぎながらも、京都を中心に新しい政治や文化が生まれ、
やがて戦国時代へとつながっていきました。
足利尊氏が開いた室町幕府から始まり、
足利義満の北山文化、足利義政の東山文化を経て、
「力の美」と「心の美」がともに発展しました。
金閣寺・銀閣寺・書院造といった建築は、
今の日本文化や住まいの美意識にも深く根づいています。
また、惣村や町衆に代表されるように、
庶民が自分たちの力で社会を動かす「自治の芽」も育ちました。
戦いや争いの中でも、人々が協力し、文化をつくり出した時代――
それが室町時代の真の姿といえるでしょう。
政治・文化・暮らしのすべてに「変化と挑戦」があったこの時代を学ぶことは、
今を生きる私たちが「どう生きるか」を考えるヒントにもなります。
ぜひ自由研究や授業の学びを通して、
**自分だけの“室町時代の発見”**を見つけてみてください。
この記事を書いた人
西田 俊章(MOANAVIスクールディレクター/STEAM教育デザイナー)
公立小学校で20年以上、先生として子どもたちを指導し、教科書の執筆も担当しました。
現在はMOANAVIを運営し、子どもたちが「科学・言語・人間・創造」をテーマに学ぶ場をデザインしています。