
奈良時代と聞くと、奈良の大仏や古いお寺を思い浮かべる人が多いかもしれません。
でも、奈良時代はそれだけの時代ではありません。
この時代、日本では「国ってなんだろう?」「どうすれば人々が安心して暮らせるのだろう?」と、たくさんのことが考えられました。
仏教の力で国を守ろうとした天皇、全国をまわって人々を助けた行基、命がけで外国へ学びに行った遣唐使。
土地のルールやお金のしくみも変わり、人々の暮らしは大きく動いていきます。
さらに、古事記・日本書紀・風土記・万葉集といった書物には、
当時の人々の考えや、喜びや悲しみ、くらしの様子が、今に伝えられています。
この読み物では、天平文化を中心に、奈良時代の政治・仏教・国際交流・人々の暮らしを、やさしく、でもしっかりつながりが分かるように解説していきます。
奈良時代を知ることは、日本の歴史の「土台」を知ることでもあります。
さあ、一緒に1300年前の日本へ旅してみましょう。
奈良時代とはどんな時代?
奈良時代は、日本が「国としての形」を本格的に整えようとした時代です。
この時代は 710年から794年まで続きました。710年に都が「平城京(へいじょうきょう)」に移されたことから、「奈良時代」と呼ばれています。
それまでの日本では、都は天皇が代わるたびに移されることが多くありました。しかし奈良時代になると、中国の唐(とう)をお手本にして、一つの都を中心に政治を行う仕組みがつくられます。平城京は、今の奈良県奈良市にあたり、計画的に作られた大きな都でした。
平城京の町は、きれいな碁盤(ごばん)の目のように道が区切られていました。これは唐の都・長安(ちょうあん)をまねたもので、日本が外国の進んだ文化や制度を積極的に学ぼうとしていたことが分かります。役所や市場、貴族の住まいなどが整えられ、「国を動かす中心地」としての役割を果たしていました。
奈良時代の大きな特徴の一つが、天皇を中心とした政治が進められたことです。法律や決まりごとを整え、国全体を同じルールで治めようとしました。これを「律令(りつりょう)」にもとづく政治といいます。難しく聞こえますが、簡単に言うと「国のルールブックを作り、それにそって政治を行おうとした」ということです。
また、この時代は 仏教が国の中心的な存在になりました。仏教はそれ以前から日本に伝わっていましたが、奈良時代には「国を守るための仏教」として、国の力で広められていきます。大きなお寺が建てられ、仏さまを大切にすることで、病気や災害のない安定した国を願いました。
一方で、奈良時代は決して貴族や天皇だけの時代ではありません。農民たちは田畑を耕し、税を納めることで国を支えていました。僧(そう)と呼ばれるお坊さんたちは、仏教を広めるだけでなく、人々の相談にのったり、社会の中で大きな役割を果たしたりしていました。子どもたちも、家の仕事を手伝いながら成長していったのです。
さらに奈良時代は、「記録を残す時代」でもありました。古事記や日本書紀といった歴史書、風土記のような地方の記録、そして万葉集という歌集が生まれます。これらは、奈良時代の人々が自分たちの国やくらしを言葉にして残そうとした証拠です。
つまり奈良時代とは、
国のしくみを整え、仏教や文化を大切にし、人々のくらしと心を記録し始めた時代
だと言えるでしょう。
次の章では、こうした奈良時代の中でも特に花開いた
**「天平文化」**について、くわしく見ていきます。
天平文化とは何か
天平文化(てんぴょうぶんか)とは、奈良時代の中ごろに花ひらいた、日本の歴史の中でもとくに豪華で国際色ゆたかな文化のことです。
だいたい 8世紀前半(729年ごろ〜749年ごろ)、聖武天皇(しょうむてんのう)の時代を中心に発展しました。
この天平文化のいちばん大きな特徴は、仏教が文化の中心にあったことです。
当時の人々は、病気や災害、戦いなどが続く不安な世の中を、仏の力でしずめたいと考えていました。そこで国は、仏教を大切にし、大きなお寺や立派な仏像をつくり、「仏教の力で国を守る」政治を進めたのです。
天平文化を代表するものの一つが、奈良の大仏です。
高さ15メートル近くもあるこの大仏は、「こんなに大きな仏さまをつくれるほど、国には力がある」ということを内外に示す意味もありました。つまり天平文化は、信仰であると同時に、国の力を表す文化でもあったのです。
また、天平文化は日本だけで生まれた文化ではありません。
当時の日本は、中国の唐や、さらに遠くの国々と交流していました。遣唐使によって、仏教の教えだけでなく、建築、彫刻、音楽、服装、文字の使い方など、さまざまな文化が伝えられました。
そのため天平文化には、外国の文化と日本の文化が混ざり合った特徴が見られます。
たとえば仏像を見てみると、天平時代の仏像は、体のつくりが自然で、表情がやさしく、人間らしさを感じさせます。これは、唐の進んだ彫刻技術の影響を受けているからです。一方で、日本人の感覚に合うように工夫もされており、ただのまねではありませんでした。
さらに天平文化は、貴族だけのものではありませんでした。
万葉集には、天皇や貴族だけでなく、農民や防人(さきもり)など、さまざまな立場の人が詠んだ歌が収められています。これは、人々の心やくらしが文化として残されたという点で、とても大きな意味があります。
つまり天平文化とは、
仏教を中心に、国の力・国際交流・人々の思いが結びついて生まれた文化
だと言えるのです。
クイズ①
次のうち、天平文化の大きな特徴として正しいものはどれでしょう?
- 武士の力が強まり、戦いをえがいた文化
- 仏教を中心に、国の力と信仰を表した文化
- ヨーロッパの文化をそのまま取り入れた文化
正解は 2 です。
👉 天平文化は、仏教を大切にし、大仏や寺院などを通して「国を守りたい」という願いを表した文化でした。
仏教が国を支えた理由と大仏建立
奈良時代、仏教は「個人の信仰」だけでなく、国全体を守るための大切な力として考えられていました。
当時の日本では、病気が流行したり、天候不順で作物がとれなかったり、反乱が起きたりと、不安な出来事が多くありました。こうした不安をしずめ、国を安定させるために、人々は仏の力に大きな希望をいだいたのです。
その中心にいたのが、**聖武天皇(しょうむてんのう)**でした。
聖武天皇は、「天皇一人の力では国を守れない。仏の力を借りて、みんなで平和な国をつくろう」と考えました。そこで、仏教を国の大切な柱として広める政策を進めていきます。
その象徴となったのが、**大仏建立(だいぶつこんりゅう)**です。
743年、聖武天皇は「大仏建立の詔(みことのり)」を出し、日本中の人々に協力を呼びかけました。この詔には、「身分の高い人も低い人も、できる形で力を出し合ってほしい」という思いがこめられていました。
奈良の大仏は、高さが約15メートルもある巨大な仏像です。
これほど大きな仏像をつくるには、たくさんの金属や木材、人の手が必要でした。国が主導し、貴族や役人だけでなく、農民や僧、地方の人々までが関わる、国家規模の大事業だったのです。
大仏がつくられた目的は、ただ立派な像をつくることではありません。
「仏の力によって、病や災いをしずめ、国と人々の命を守りたい」
それが、聖武天皇と当時の人々の共通の願いでした。大仏は、その願いを形にした存在だったのです。
また、大仏が安置された東大寺は、仏教の中心となるお寺でした。
ここから仏教の教えが全国へと広がり、「仏教によって国を一つにまとめようとする考え方」が、より強まっていきました。
このように奈良時代の仏教は、
信仰・政治・人々のくらしが結びついた、国づくりのための力
として、大きな役割を果たしていたのです。
クイズ②
次のうち、聖武天皇が大仏建立を進めた理由として最も近いものはどれでしょう?
- 仏の力で国を守り、人々の不安をしずめたかったから
- 外国に戦争をしかけるための武器が必要だったから
- 貴族だけが楽しめる芸術作品をつくりたかったから
正解は 1 です。
👉 大仏建立は、仏教の力で国の平和と人々の安心を願う、国家的な取り組みでした。
行基の活躍と人々の協力
奈良時代に、仏教を人々の身近なものにした僧として有名なのが、**行基(ぎょうき)**です。
行基は668年に生まれ、奈良時代を代表するお坊さんの一人でした。
当時の仏教は、貴族や天皇のためのものという考えが強く、一般の人々が自由に教えを聞くことはあまりありませんでした。しかし行基は、農民や貧しい人々のもとへ自ら出向き、仏教の教えを分かりやすく伝えたことで知られています。
行基は、ただお経を読むだけの僧ではありませんでした。
道や橋を整えたり、ため池をつくったりして、人々の生活が少しでも楽になるように行動しました。こうした活動は、今でいう「社会福祉」に近いものです。そのため行基は、多くの人々から信頼され、深く尊敬される存在になっていきました。
はじめのうち、国は行基の活動をよく思っていませんでした。
人々が大勢集まることは、反乱につながるおそれがあると考えられていたからです。しかし、行基の活動が人々の生活を支え、社会を安定させていることが分かると、しだいに国もその力を認めるようになります。
そして、大仏建立の計画が進められる中で、行基はとても重要な役割を果たします。
743年に出された「大仏建立の詔」によって、全国の人々に協力が呼びかけられましたが、実際に人々の心を動かしたのは、行基の存在でした。行基は、「少しの力でもよいから、みんなで国を支えよう」と説き、農民や町の人々から寄付や労働の協力を集めたのです。
このようにして、大仏づくりは、天皇や貴族だけの事業ではなく、人々一人ひとりが関わる国家事業となりました。
行基はその功績によって、特別に「大僧正(だいそうじょう)」という高い位を与えられました。これは、行基の生き方が国からも認められた証でした。
行基の活躍は、奈良時代の仏教が、
人々のくらしと深く結びついていたことを教えてくれます。
仏教は遠い存在ではなく、人々を助け、つなぐ力だったのです。
クイズ③
次のうち、行基の活躍として正しいものはどれでしょう?
- 貴族だけに仏教を教え、一般の人々を遠ざけた
- 戦いのための軍隊を組織した
- 人々のくらしを助けながら、仏教を広めた
正解は 3 です。
👉 行基は、人々の生活を支えながら仏教を広め、多くの人の信頼を集めました。
国分寺・国分尼寺と全国への広がり
奈良時代、仏教は都だけでなく、日本全国に広げられていきました。
そのために大きな役割を果たしたのが、**国分寺(こくぶんじ)と国分尼寺(こくぶんにじ)**です。
741年、聖武天皇は
「国ごとに寺を建て、仏教の力で国を守ろう」
という命令を出しました。これによって、各地に国分寺(僧のお寺)と国分尼寺(尼僧のお寺)が建てられることになります。
国分寺と国分尼寺の目的は、ただお寺を増やすことではありませんでした。
仏教の教えを通して、地方の人々の心を安定させ、国を一つにまとめることがねらいだったのです。
都・平城京だけでなく、地方にも同じような寺を置くことで、「日本は一つの国である」という意識を広めようとしました。
国分寺では、写経(お経を書き写すこと)や法会(仏教の行事)が行われました。
これらは、災害や病気が起こらないように願うとともに、人々が集まり、つながる場にもなっていました。国分尼寺では、女性たちが尼僧として仏教を学び、祈りをささげました。
この制度によって、仏教は貴族や僧だけのものではなく、地方に暮らす農民や町の人々にも身近な存在になっていきます。
また、国分寺は地方の政治や文化の中心としての役割も果たし、国の考えや方針が地方へ伝わる大切な場所となりました。
このように国分寺・国分尼寺は、
仏教を通して国と地方、人と人をつなぐ役割
を担っていたのです。
クイズ④
次のうち、国分寺・国分尼寺が建てられた目的として正しいものはどれでしょう?
- 貴族だけが勉強するための学校をつくるため
- 仏教の力で国を守り、地方にも国の考えを広めるため
- 外国からの侵略にそなえて兵士を集めるため
正解は 2 です。
👉 国分寺・国分尼寺は、仏教を全国に広め、国を一つにまとめるためにつくられました。
遣唐使と国際交流
奈良時代の日本は、国づくりを進めるために、外国から多くのことを学ぼうとしていました。その中心となったのが、**遣唐使(けんとうし)**です。遣唐使とは、日本から中国の唐へ派遣された使節のことで、630年から894年まで、何度も送られました。奈良時代は、その中でも特に活発な時期でした。
遣唐使の目的は一つではありません。
政治の仕組み、法律、仏教の教え、文字の使い方、建築や美術、音楽、服装など、国を動かすために必要な知識や文化を学ぶことが大きなねらいでした。当時の唐は、東アジアで最も進んだ国の一つで、日本にとっては「学ぶべきお手本」だったのです。
しかし、遣唐使の旅はとても危険でした。
日本から唐へ向かうには、船で荒れた海を何日も越えなければなりません。嵐で船が沈んだり、目的地にたどり着けなかったりすることもありました。それでも人々は、命がけで学びに行く価値があると考えていました。
遣唐使によってもたらされた影響は、奈良の都や天平文化の中に数多く見られます。
平城京の町のつくり、役所の仕組み、仏像の表現、文字文化の発展などは、唐の影響を強く受けています。ただし、日本は学んだものをそのまままねるだけではありませんでした。日本の風土や考え方に合わせて工夫し、日本らしい形に作り変えていったのです。
また、遣唐使は「物」だけでなく、「人」も動かしました。
唐に渡って学び、そのまま長く唐で活躍した人や、後に日本へ知識を持ち帰った人もいます。こうした人々の存在によって、奈良時代の日本は、世界とつながる国として成長していきました。
遣唐使は、奈良時代の日本が
外に目を向け、学び、よりよい国をつくろうとした姿勢
をあらわす、とても大切な取り組みだったのです。
クイズ⑤
次のうち、遣唐使の目的として正しいものはどれでしょう?
- 唐と戦争をするために軍事力を調べること
- 日本の文化だけを唐に教えること
- 唐の進んだ制度や文化を学び、日本の国づくりに生かすこと
正解は 3 です。
👉 遣唐使は、唐の政治や文化を学び、日本の国づくりに役立てるために派遣されました。
鑑真と唐招提寺
遣唐使による交流の中で、日本の仏教にとても大きな影響を与えた人物がいます。
それが、**鑑真(がんじん)**です。鑑真は、中国・唐の高名な僧で、正しい仏教の戒律(かいりつ)を日本に伝えた人物として知られています。
奈良時代の日本では、仏教は広まっていましたが、僧として守るべき正式な決まりごとが十分に整っていませんでした。そこで日本は、唐の進んだ仏教を学ぶため、鑑真に来日をお願いしました。
しかし、鑑真の日本への旅は、決して順調ではありませんでした。
鑑真は何度も日本行きを試みますが、そのたびに嵐や事故にあい、失敗します。途中で視力を失ってしまうという大きな困難にも見舞われました。それでも鑑真はあきらめず、753年、ついに日本にたどり着いたのです。
日本に来た鑑真は、すぐに重要な役割を果たします。
それは、正しい戒律を伝え、正式な僧を育てることでした。鑑真の教えによって、日本の仏教は「国のための仏教」から、「きちんとした決まりをもつ宗教」へと大きく成長していきます。
鑑真が拠点としたのが、**唐招提寺(とうしょうだいじ)**です。
唐招提寺は 759年 に建てられ、唐の建築様式を色濃く残す寺院として知られています。今でも、奈良時代の建築や文化を伝える貴重な寺として大切に守られています。
唐招提寺は、ただの寺ではありませんでした。
ここは、僧が学び、修行し、仏教の教えを正しく伝えるための「学びの場」でもあったのです。鑑真の存在によって、日本の仏教は、より深く、より確かなものになりました。
鑑真の生き方は、
国や言葉のちがいをこえて、学びと信念を貫いた姿
として、奈良時代の国際交流を象徴するものだと言えるでしょう。
クイズ⑥
次のうち、鑑真について正しいものはどれでしょう?
- 何度も失敗しながらも日本に来て、正しい仏教の教えを伝えた
- 奈良時代に日本から唐へ留学した人物
- 武士として戦いに活やくした人物
正解は 1 です。
👉 鑑真は多くの困難を乗りこえ、日本に正しい仏教の戒律を伝えました。
阿倍仲麻呂・吉備真備と学びの力
遣唐使として唐に渡り、日本と外国をつないだ人物の中でも、特に有名なのが
**阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)と吉備真備(きびのまきび)**です。
この二人は、「学ぶことの力」が国を成長させることを示した代表的な人物でした。
阿倍仲麻呂の生涯
阿倍仲麻呂は、717年、遣唐使の一員として唐に渡りました。
唐で学問や政治の才能を認められ、現地で役人として活躍するほど高く評価されます。日本に帰る予定もありましたが、帰国の途中で船が難破し、再び唐に戻ることになりました。その後、仲麻呂は唐で生涯を終えます。
阿倍仲麻呂は、日本人でありながら唐の社会で生きた人物でした。
彼は、異なる文化の中でも学び続けることで道を切り開いた存在だったのです。また、万葉集には、仲麻呂が日本を思って詠んだとされる歌も残されています。遠い異国で祖国を思う気持ちは、今の私たちにも伝わってきます。
吉備真備の活躍
一方、吉備真備も遣唐使として唐に渡り、さまざまな学問を学びました。
政治の仕組み、法律、天文学、音楽など、幅広い知識を身につけ、日本へ持ち帰ります。
日本に帰国した吉備真備は、その知識を生かして政治に関わり、国づくりを支えました。
吉備真備の活躍によって、日本の政治や文化はより整えられていきます。彼は、「学んだことを国のために生かす」人物だったと言えるでしょう。
阿倍仲麻呂と吉備真備に共通しているのは、
外国の進んだ知識を学び、それぞれの立場で国や文化に貢献した
という点です。
奈良時代の日本は、ただ外の世界をまねるのではなく、
「学び、考え、取り入れ、工夫する」
という姿勢を大切にしていました。この二人の生き方は、そのことをよく表しています。
クイズ⑦
次のうち、阿倍仲麻呂と吉備真備に共通する点として正しいものはどれでしょう?
- 日本で生まれ、ずっと日本から出なかった
- 遣唐使として唐に渡り、学んだ知識を国や文化につなげた
- 武士として戦い、国を守った
正解は 2 です。
👉 二人とも遣唐使として唐に渡り、学びを通して日本に大きな影響を与えました。
奈良時代のお金と経済
奈良時代は、政治や文化だけでなく、お金のしくみも大きく変わった時代でした。
それまでの日本では、米や布などを使った「物々交換」が中心でしたが、国を一つにまとめ、安定して治めるためには、共通のお金が必要だと考えられるようになります。
和銅開弥と日本最初のお金
708年、日本で初めて本格的なお金としてつくられたのが、**和銅開弥(わどうかいちん)**です。
「和銅」は日本の銅、「開弥」は「広く行きわたる」という意味をもちます。つまり和銅開弥は、「日本の銅でつくられ、国中に広まるお金」を目指してつくられたものでした。
この和銅開弥は、唐の貨幣を手本にしてつくられました。
丸い形で、真ん中に四角い穴があいているのが特徴です。ひもを通して持ち歩けるように工夫されていました。
富本銭とお金のはじまり
和銅開弥よりも少し前に使われていたと考えられているのが、**富本銭(ふほんせん)**です。
富本銭は、7世紀後半につくられたとされ、日本最古の貨幣ではないかとも言われています。ただし、どのように使われていたのかは、まだ分からない点も多く、研究が続いています。
お金はなぜ必要だったのか
国が貨幣をつくった理由は、買い物を便利にするためだけではありません。
税を集めたり、役人に給料を支払ったりするためには、共通の価値をもつものが必要でした。お金は、国の仕組みを動かすための大切な道具だったのです。
ただし、奈良時代のすべての人が、お金を使って生活していたわけではありません。
農民の多くは、今までどおり米や布を納める生活を続けていました。お金は主に、都や役所、市場などで使われ、少しずつ社会に広がっていったのです。
このように奈良時代は、
物のやりとりから、お金を使う社会へと移り変わり始めた時代
だったと言えるでしょう。
クイズ⑧
次のうち、和銅開弥について正しいものはどれでしょう?
- 708年につくられた、日本で初めて本格的に広められた貨幣
- 奈良時代の終わりに外国からそのまま持ちこまれたお金
- 貴族だけが使い、国では認められていなかったお金
正解は 1 です。
👉 和銅開弥は708年につくられ、国が広めようとした日本初の本格的な貨幣でした。
土地のルールと農民の暮らし(三世一身の法・墾田永年私財法)
奈良時代、国を支えていたのは農民たちでした。
米をつくり、税を納めることで、政治や文化、仏教の広がりが成り立っていたのです。そのため国は、「どうやって土地を管理し、農民に田畑を耕してもらうか」をとても大切に考えていました。
もともと奈良時代の日本では、土地はすべて国のものとされていました。
農民は国から田畑を借りて耕し、収穫した米の一部を税として納めます。しかし、人口が増えたり、荒れた土地が多かったりして、新しい田畑がなかなか増えないという問題が起こってきました。
三世一身の法(723年)
そこで723年に出されたのが、**三世一身の法(さんぜいっしんのほう)**です。
この法律では、新しく開いた土地について、
- 本人
- 子ども
- 孫
の 三代まで その土地を使ってよい、という決まりが定められました。
これによって農民は、「がんばって土地を開けば、しばらくは自分たちのものとして使える」と考え、開墾に取り組みやすくなりました。ただし、三代が終わると土地は国に返さなければならなかったため、十分な効果は出ませんでした。
墾田永年私財法(743年)
そこでさらに出されたのが、**墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)**です。
743年、この法律によって、新しく開いた土地は ずっと自分のものにしてよい と認められました。
これは、土地の歴史の中でもとても大きな変化です。
人々は安心して土地を開き、農業に力を入れるようになりました。一方で、この法律は思わぬ影響も生みます。貴族や寺院が広い土地を持つようになり、やがて「荘園(しょうえん)」と呼ばれる私有地が増えていくきっかけにもなりました。
農民の暮らしとの関係
これらの法律は、農民の生活と深く結びついていました。
土地がなければ、農民は生きていけません。国は農民に耕してもらう必要があり、農民は安定して土地を使えることを望んでいました。
法律は、国と農民の関係を調整するための道具だったのです。
奈良時代の土地のルールは、
のちの荘園の広がりや、平安時代の社会へとつながる大切な土台
となっていきました。
クイズ⑨
次のうち、墾田永年私財法について正しいものはどれでしょう?
- 国から借りた土地は、必ず一代で返さなければならないと決めた法律
- 新しく開いた土地は三代まで使えると定めた法律
- 新しく開いた土地を、永久に自分のものとしてよいと認めた法律
正解は 3 です。
👉 墾田永年私財法では、開墾した土地をずっと自分のものにできると認められました。
荘園はどのように生まれたのか
奈良時代の後半になると、日本の土地のあり方は、少しずつ変わっていきます。
その変化の中で生まれたのが、**荘園(しょうえん)**です。荘園とは、貴族や寺院などが私有する土地のことで、のちの平安時代に大きく広がっていきました。
荘園が生まれるきっかけとなったのが、前の章で学んだ
**墾田永年私財法(743年)**です。
この法律によって、新しく開いた土地は、永久に自分のものにしてよいと認められました。
すると、どうなるでしょうか。
力やお金をもっている貴族や大きな寺院は、多くの人を使って広い土地を開墾できるようになります。こうして、広い私有地をもつ人や組織が増えていきました。これが、荘園の始まりです。
なぜ荘園は増えていったのか
荘園が広がった理由の一つに、税との関係があります。
国の土地(公地)では、農民は重い税を納めなければなりませんでした。しかし、貴族や寺院が管理する土地では、税が軽くなったり、免除されたりすることがありました。
そのため農民の中には、
「国の土地で耕すより、貴族や寺院の土地で働いたほうが生活が楽になる」
と考える人も増えていきます。こうして、人も土地も荘園に集まり、荘園はしだいに大きくなっていきました。
奈良時代の荘園と平安時代とのちがい
奈良時代の荘園は、まだ数も少なく、形も完全ではありませんでした。
しかし、この時代に生まれた荘園のしくみは、平安時代になるとさらに広がり、国の力が弱まり、貴族や寺院の力が強まる社会へとつながっていきます。
つまり奈良時代の荘園は、
次の時代への「芽」
だったと言えるでしょう。
荘園の始まりを知ることで、
「なぜ国の仕組みが変わっていったのか」
「なぜ貴族の力が強まったのか」
といった、歴史の大きな流れが見えてきます。
クイズ⑩
次のうち、荘園が生まれるきっかけとして正しいものはどれでしょう?
- 武士が土地をうばい合う戦いが始まったから
- 墾田永年私財法によって、土地を私有できるようになったから
- 天皇がすべての土地を農民に分け与えたから
正解は 2 です。
👉 墾田永年私財法によって私有地が認められたことが、荘園が生まれる大きなきっかけでした。
奈良時代の人々の暮らし
奈良時代の社会は、天皇や貴族だけで成り立っていたわけではありません。
農民、僧、職人、子どもたちなど、さまざまな立場の人々のくらしによって、国は支えられていました。ここでは、奈良時代の人々がどのような毎日を送っていたのかを見ていきましょう。
貴族の暮らし
貴族たちは、平城京の中やその周辺に住み、政治を行っていました。
役人として国の仕事をし、位(くらい)に応じて給料や土地を受け取ります。服装や住まい、食事はとてもぜいたくで、中国・唐の文化を取り入れた生活をしていました。
また、貴族たちは和歌を詠んだり、音楽を楽しんだりと、文化の担い手でもありました。天平文化の華やかさは、こうした貴族の生活の中で育まれていったのです。
農民の暮らし
一方で、国の人口の多くを占めていたのが農民です。
農民は田畑を耕し、米や布を税として納めていました。税は決して軽くなく、農民の生活は楽ではありませんでした。
それでも農民たちは、家族で協力しながら農作業を行い、季節に合わせた生活を送っていました。土地のルールが変わることで、生活が少しずつ変化していったのも、奈良時代の特徴です。
僧の暮らし
僧(お坊さん)たちは、お寺で修行し、仏教の教えを広める役割を担っていました。
写経をしたり、法会を行ったりするだけでなく、人々の相談にのることもありました。行基のように、社会の中で積極的に活動する僧もいました。
僧の存在は、人々の心の支えとなり、仏教が生活の中に根づくきっかけとなったのです。
子どもたちの暮らし
奈良時代の子どもたちは、学校に通うのではなく、家の仕事を手伝いながら成長していきました。
農家の子どもは農作業を、職人の子どもは親の仕事を見て学びました。読み書きができるのは一部の人に限られていましたが、生活の中で知恵や技術を身につけていったのです。
このように奈良時代の暮らしは、
身分や立場によって大きく異なっていました。
しかし、どの人々の生活も、国のしくみや文化を支える大切な役割を果たしていたのです。
クイズ⑪
次のうち、奈良時代の人々の暮らしについて正しいものはどれでしょう?
- 農民は税を納め、国を支える重要な役割を果たしていた
- すべての人が学校に通い、文字の勉強をしていた
- 僧は政治や人々の生活に関わることはなかった
正解は 1 です。
👉 農民は重い税を納めながら、国の基盤となる農業で奈良時代を支えていました。
奈良時代に書かれた大切な書物(古事記・日本書紀)
奈良時代は、「国のしくみを整える時代」であると同時に、
歴史を文字で残そうとした時代でもありました。
その代表が、**古事記(こじき)と日本書紀(にほんしょき)**です。
古事記とはどんな書物?
古事記は、712年に完成しました。
日本の神話や、天皇の祖先、国の始まりについて書かれた本です。
古事記には、
- イザナギ・イザナミ
- 天照大神(あまてらすおおみかみ)
など、神さまたちの物語が多く登場します。
古事記の特徴は、日本語のリズムを大切にして書かれていることです。
当時はまだひらがなやカタカナがなかったため、漢字を使って日本語の音を表しました。読み聞かせることで、物語として伝えられるよう工夫されていたのです。
日本書紀とはどんな書物?
日本書紀は、720年に完成しました。
内容は古事記と似ていますが、大きなちがいがあります。
日本書紀は、**漢文(中国の書き方)**で書かれ、
日本の歴史を中国や朝鮮半島の国々に伝える目的もありました。
「日本は長い歴史と立派な天皇をもつ国である」
ということを、外国に示そうとしたのです。
古事記と日本書紀のちがい
簡単に言うと、
- 古事記:日本の人々に向けて、物語として伝える本
- 日本書紀:外国にも示すための、公式な歴史書
というちがいがあります。
この二つの書物がつくられたことで、
日本は「口で伝える国」から
**「文字で歴史を残す国」**へと大きく進みました。
奈良時代の人々は、
「自分たちはどこから来たのか」
「この国はどんな国なのか」
を、真剣に考え、言葉として残そうとしていたのです。
クイズ⑫
次のうち、古事記と日本書紀のちがいとして正しいものはどれでしょう?
- 古事記は外国向け、日本書紀は日本の人向けに書かれた
- 日本書紀は物語だけで、歴史は書かれていない
- 古事記は日本向け、日本書紀は外国にも示す目的があった
正解は 3 です。
👉 古事記は日本の人々に伝える物語として、日本書紀は外国にも示す公式な歴史書として書かれました。
風土記と地方のくらし
奈良時代、国は都・平城京だけでなく、地方のようすを正しく知ることを大切に考えるようになりました。
そのためにつくられたのが、**風土記(ふどき)**です。
風土記とは何か
風土記は、713年に出された命令によって、各地で編さんが始まりました。
内容は、土地の名前の由来、山や川のようす、特産物、伝説や神話、そして人々のくらしなどです。
つまり風土記は、
地方ごとの自然・文化・生活を記録した本
だと言えます。
今でも残っているものとしては、
- 出雲国風土記
- 常陸国風土記
- 播磨国風土記
などがあります。
なぜ国は風土記を作らせたのか
国が風土記を作らせた理由は、一つではありません。
一つ目は、税を正しく集めるためです。
どんな作物がとれ、どんな土地なのかを知ることで、国は地方を効率よく治めることができました。
二つ目は、地方の文化や伝えを把握するためです。
地方には、それぞれ独自の神話や言い伝えがありました。国はそれらを知り、国全体の歴史としてまとめようとしたのです。
風土記から分かる人々のくらし
風土記には、農作物や漁、山の幸など、人々の生活のくふうがたくさん書かれています。
どのように自然と向き合い、どんなものを大切にして生きていたのかが、具体的に伝わってきます。
また、風土記には、少しふしぎでおもしろい伝説も多く残されています。
これは、当時の人々が自然や神をどのように感じていたのかを知る手がかりになります。
風土記は、
中央からは見えにくい、地方の人々の本当の姿
を伝えてくれる、貴重な資料なのです。
クイズ⑬
次のうち、風土記について正しいものはどれでしょう?
- 都の貴族の生活だけを記録した本
- 地方の自然やくらし、伝説などを記録した本
- 外国との戦争のようすをまとめた本
正解は 2 です。
👉 風土記は、地方ごとの自然や産物、人々のくらしを記録した書物です。
万葉集にこめられた人々の心
奈良時代の文化を語るうえで、欠かすことができないのが
**万葉集(まんようしゅう)**です。
万葉集は、8世紀後半にまとめられた、日本で最も古い和歌集として知られています。
万葉集とはどんな歌集?
万葉集には、約4500首もの歌が収められています。
その大きな特徴は、さまざまな立場の人の歌が集められていることです。
天皇や貴族だけでなく、
- 農民
- 防人(国を守る兵士)
- 名もない人々
の歌も含まれています。
これは、万葉集が「えらい人のための本」ではなく、
生きていた人々の気持ちを残した歌集であることを意味しています。
どんな気持ちが歌われているのか
万葉集の歌には、
- 家族を思う気持ち
- 友だちとの別れ
- 遠く離れた人への恋しさ
- 自然の美しさへの感動
など、私たちにも共感できる感情がたくさんえがかれています。
たとえば、遣唐使や防人として遠い土地へ行った人が、
「家に残した家族に会いたい」
と詠んだ歌もあります。
こうした歌から、奈良時代の人々が、
今の私たちと同じように悩み、喜び、悲しんでいた
ことが伝わってきます。
万葉集と天平文化
万葉集は、天平文化の中で生まれた文学です。
仏教や政治が国を支える一方で、人々は
自分の心を言葉にして残すこと
を大切にしていました。
万葉集は、歴史の教科書では分かりにくい
「その時代を生きた人の声」
を、今に伝えてくれる貴重な資料なのです。
クイズ⑭
次のうち、万葉集の特徴として正しいものはどれでしょう?
- 天皇や貴族だけでなく、さまざまな人の歌が集められている
- 外国の言葉で書かれた詩だけを集めた本
- 法律や政治の決まりを書いた本
正解は 1 です。
👉 万葉集には、身分をこえた多くの人々の気持ちが歌として残されています。
正倉院と天平文化の宝物
奈良時代・天平文化の姿を、今にそのまま伝えてくれる場所があります。
それが、**正倉院(しょうそういん)**です。
正倉院は、奈良・東大寺の北側に建てられた宝物庫で、約1300年前の宝物が今も大切に守られている、世界でもめずらしい建物です。
正倉院とは何か
正倉院は、もともと聖武天皇の遺品や、東大寺に関わる大切な品々を保管するためにつくられました。
その中には、仏教の道具だけでなく、楽器、衣服、家具、薬、文書など、さまざまなものが含まれています。
これらの宝物から分かるのは、
天平文化がとても国際的で、豊かな文化だったということです。
シルクロードとつながる宝物
正倉院の宝物の中には、日本だけでつくられたものだけでなく、
中国・唐、西アジア、インドなど、遠い国の影響を受けた品も多くあります。
たとえば、
- ガラス製品
- 金や銀を使った工芸品
- 外国風の模様がえがかれた道具
などです。
これらは、直接その国から運ばれたものや、外国の文化をまねて日本でつくられたものと考えられています。
つまり正倉院は、
奈良時代の日本が世界とつながっていた証拠
とも言えるのです。
なぜ宝物は残り続けたのか
正倉院の宝物が今まで残ってきた理由の一つに、
建物のつくりの工夫があります。
次の章でくわしく学びますが、正倉院は湿気に強く、物を長く守れる構造をしていました。
また、宝物が「大切なもの」として代々受けつがれ、
勝手に使われたり、売られたりしなかったことも、大きな理由です。
正倉院の宝物は、
天平文化の美しさだけでなく、人々の知恵や国際交流の広がり
を、今に伝えてくれています。
クイズ⑮
次のうち、正倉院の宝物について正しいものはどれでしょう?
- すべて奈良時代より後につくられたもの
- 日本国内の文化だけを表したもの
- 外国の文化の影響を受けた品も多く含まれている
正解は 3 です。
👉 正倉院の宝物には、唐や西アジアなど、外国文化の影響を受けたものも多く見られます。
校倉造りのひみつ
正倉院の宝物が、1300年もの長い間、ほとんど傷まずに残ってきた理由には、
**校倉造り(あぜくらづくり)**という、特別な建築方法があります。
校倉造りは、奈良時代の建築技術の高さを示す代表例です。
校倉造りとはどんな建て方?
校倉造りは、三角形の断面をもつ木材を、
積み木のように横に重ねて壁をつくる建て方です。
釘をあまり使わず、木と木を組み合わせて建物を支えるのが特徴です。
正倉院の壁を見ると、木が何段にも重なっているのが分かります。
このすき間が、校倉造りの大きなひみつです。
なぜ湿気に強いのか(理科とのつながり)
校倉造りの建物は、湿気に強いことで知られています。
日本は雨が多く、湿気の多い国です。紙や布、木でできた宝物を守るためには、湿気をうまく調整する必要がありました。
校倉造りでは、
- 夏:木がふくらみ、すき間が小さくなる
- 冬:木が縮み、すき間が広がる
という、木の性質を利用しています。
これによって、建物の中の空気が自然に入れかわり、湿気がたまりにくくなるのです。
これは、理科で学ぶ
「物は、温度や湿度でのびたりちぢんだりする」
という性質を、昔の人が経験から理解していた証拠でもあります。
昔の人の知恵と工夫
校倉造りは、特別な機械や道具がなくても、
自然の力を利用して宝物を守る知恵でした。
正倉院が今も残り続けているのは、
- 天平文化の豊かさ
- 奈良時代の高い建築技術
- 自然と向き合う人々の知恵
が合わさった結果だと言えるでしょう。
クイズ⑯
次のうち、校倉造りが湿気に強い理由として正しいものはどれでしょう?
- 建物の中で火をたいて、湿気をなくしていたから
- 木がのび縮みする性質を利用して、空気が入れかわるから
- すべて石でできた建物だったから
正解は 2 です。
👉 校倉造りは、木の性質を利用して湿気を調整する建築方法でした。
自由研究に使えるアイデア
奈良時代は、政治・文化・くらし・国際交流など、さまざまなテーマがつながっているため、自由研究にとても向いています。ここでは、小学校中学年〜中学生まで取り組みやすいアイデアを紹介します。
① 奈良時代の一日を再現してみよう
- 貴族・農民・僧の中から一つを選ぶ
- 朝から夜まで、どんな生活をしていたかを調べる
- 食事、服装、仕事、住まいを絵や文章でまとめる
👉 「同じ時代でも立場によって暮らしが全く違う」ことに気づけます。
② 天平文化マップを作ろう
- 大仏、国分寺、唐招提寺、正倉院などを地図に書き込む
- それぞれが何のためにつくられたのかを整理する
- 国づくりと仏教の関係を考える
👉 社会(地理)と歴史を結びつけた研究になります。
③ 荘園が広がる流れを図で説明しよう
- 三世一身の法 → 墾田永年私財法 → 荘園
- なぜ国の土地が私有地に変わっていったのかを整理
- 平安時代とのつながりも考えてみる
👉 「法律が社会をどう変えるか」を考える探究に向いています。
④ 万葉集の歌を現代語にしてみよう
- 万葉集から1首選ぶ
- 現代語に言いかえてみる
- どんな気持ちがこめられているかを考える
👉 国語と社会をつなげた自由研究になります。
⑤ 校倉造りを理科の視点で調べよう
- 木がのび縮みする性質を調べる
- なぜ湿気を防げるのかを図で説明する
- 現代の建築との共通点を探す
👉 理科×社会の教科横断型研究におすすめです。
おさらいクイズ
クイズ①
奈良時代が始まった年として正しいものはどれでしょう?
- 694年
- 710年
- 794年
正解は 2 です。
👉 710年に都が平城京に移され、奈良時代が始まりました。
クイズ②
天平文化の特徴として、最もあてはまるものはどれでしょう?
- 武士の活やくが中心の文化
- 外国との交流をさけた文化
- 仏教を中心に、国の力を示した文化
正解は 3 です。
👉 天平文化は、仏教を中心に、大仏や寺院などで国の力を表した文化でした。
クイズ③
遣唐使が命がけで唐へ向かった主な理由はどれでしょう?
- 唐の文化や制度を学び、日本の国づくりに生かすため
- 唐と戦争をするため
- 日本の文化だけを伝えるため
正解は 1 です。
👉 遣唐使は、唐の進んだ知識や文化を学ぶことを目的としていました。
クイズ④
墾田永年私財法によって起こった変化として正しいものはどれでしょう?
- すべての土地が国のものになった
- 新しく開いた土地を永久に自分のものにできるようになった
- 農民が土地を耕せなくなった
正解は 2 です。
👉 墾田永年私財法によって、土地の私有が認められ、荘園が生まれるきっかけになりました。
クイズ⑤
万葉集について正しい説明はどれでしょう?
- 貴族だけが詠んだ歌集
- 法律や政治の決まりをまとめた本
- さまざまな立場の人々の気持ちを歌にした歌集
正解は 3 です。
👉 万葉集には、天皇から農民まで、多くの人の思いが歌として残されています。
まとめ
奈良時代は、日本が本格的に「国としての形」を整えようとした、大きな転換点の時代でした。
平城京を中心に政治が行われ、仏教が国を守る力として重視され、天平文化という華やかで国際色ゆたかな文化が花ひらきました。
聖武天皇による大仏建立や国分寺・国分尼寺の建設は、仏教の力で国と人々を結びつけようとした取り組みでした。行基の活躍によって、人々自身も国づくりに参加し、仏教はくらしに根づいていきます。
また、遣唐使を通して唐の進んだ文化や制度を学び、鑑真、阿倍仲麻呂、吉備真備といった人々が、その学びを日本につなげました。正倉院の宝物や校倉造りは、奈良時代の高い技術と国際交流の広がりを、今に伝えています。
一方で、三世一身の法や墾田永年私財法によって土地のルールが変わり、荘園が生まれ始めました。これは、人々のくらしだけでなく、次の平安時代の社会へとつながる重要な変化でした。
古事記・日本書紀・風土記・万葉集といった書物や歌集からは、奈良時代の人々が、自分たちの国やくらし、心を「言葉で残そう」としていたことが分かります。
奈良時代は、
政治・仏教・文化・くらし・学びが深く結びつき、次の時代への土台が築かれた時代
だったのです。
この記事を書いた人
西田 俊章(MOANAVIスクールディレクター/STEAM教育デザイナー)
公立小学校で20年以上、先生として子どもたちを指導し、教科書の執筆も担当しました。
現在はMOANAVIを運営し、子どもたちが「科学・言語・人間・創造」をテーマに学ぶ場をデザインしています。



