
平安時代と聞くと、みなさんはどんなイメージを思い浮かべますか?
きれいな着物を着た貴族、和歌を詠む人びと、『源氏物語』や『枕草子』といった美しい文学作品――
たしかに平安時代は、日本らしい文化が大きく花開いた時代でした。
しかしその一方で、平安時代は「とても長く、そして大きく変化した時代」でもあります。
はじめは天皇を中心とした政治が行われ、やがて藤原氏が力をもち、
さらに時代が進むと、荘園の広がりや地方の不安から、武士が登場していきました。
平和に見える都のくらしの裏では、争いや不安、そして人々の悩みが少しずつ積み重なっていたのです。
人々は、そうした不安の中で、
仏教や浄土信仰、神仏習合、陰陽道、怨霊信仰など、
さまざまな信仰に支えられながら生きていました。
菅原道真が「学問の神様」としてまつられるようになった背景にも、
平安時代の人々の心のあり方が深く関わっています。
この読み物では、
政治・制度、くらし、文学、宗教、争いをバラバラに覚えるのではなく、
「その時代を生きた人々は、何を考え、どう生きようとしたのか」
という視点から、平安時代をやさしく、そして深く解説していきます。
歴史が苦手な人も、物語や人の気持ちに興味がある人も、
読み終わるころには、
平安時代が「遠い昔」ではなく、今につながる時代として感じられるはずです。
平安時代とはどんな時代?
平安時代(へいあんじだい)は、794年から1185年まで、およそ400年続いた日本の歴史の中でもとても長い時代です。
この時代の名前は、都が置かれていた 平安京(今の京都) に由来しています。
それまでの都は奈良にありましたが、桓武天皇(かんむてんのう) は794年に都を平安京へ移しました。これを 「平安京遷都(せんと)」 といいます。
平安京は、中国の都市を参考にしてつくられた、整った形の大きな都でした。
平安時代はいつ・どんな流れで続いたの?
平安時代は、大きく分けて 前期・中期・後期 の3つに分けて考えると理解しやすくなります。
- 前期(8〜9世紀)
律令制度(国が法律で人々を治める仕組み)がまだ残っていて、天皇を中心とした政治が行われていました。 - 中期(10〜11世紀)
藤原氏という貴族が力を持ち、摂関政治が行われるようになります。
このころに、文学や文化が大きく発展しました。 - 後期(12世紀)
貴族の力が弱まり、武士が政治や争いの中心になっていきます。
最後は源平合戦を経て、鎌倉時代へと移っていきました。
平安時代は、ずっと同じような社会だったわけではなく、少しずつ変化しながら次の時代へ向かっていったのです。
「貴族の時代」と言われる理由
平安時代はよく 「貴族の時代」 と呼ばれます。
それは、政治・文化・生活の中心にいたのが 貴族 だったからです。
貴族たちは、都で政治を行いながら、和歌を詠んだり、物語を書いたり、行事や服装を大切にしたりしました。
とくに、のちに紹介する『源氏物語』や『枕草子』など、今でも読まれている文学作品が多く生まれたことが、この時代の大きな特徴です。
一方で、都から離れた地方では、貧しさや争いに苦しむ人々も多くいました。
この 「都の華やかさ」と「地方の不安定さ」 の差が、後の武士の登場につながっていきます。
平安時代は「平和」だったの?
「平安」という名前から、戦争のないおだやかな時代を想像する人も多いかもしれません。
しかし実際には、平安時代の後半になると、地方や都で争いが増えていきました。
最初は貴族が政治を行っていましたが、だんだんと 武力を持つ人たち=武士 が必要とされるようになります。
つまり平安時代は、文化が花開いた時代であると同時に、次の時代への準備が進んだ時代でもあったのです。
クイズ①
次のうち、平安時代が始まった年として正しいものはどれでしょう?
- 710年
- 794年
- 1185年
正解は 2 です。
👉 794年に桓武天皇が都を平安京に移したことから、平安時代が始まりました。
律令国家のしくみと法制度
平安時代のはじめ、日本の国づくりの基本になっていたのが 律令制度(りつりょうせいど) です。
律令制度とは、法律にもとづいて国を治めるしくみのことです。
「律」は犯罪や罰について定めた法律、
「令」は政治のやり方や役人の仕事、税の集め方などを決めた決まりです。
つまり律令制度は、
👉 国のルールブックのようなもの
と考えるとわかりやすいでしょう。
大宝律令と養老律令
律令制度の中心となった法律には、次のようなものがあります。
- 大宝律令(701年)
日本で本格的に整えられた最初の律令です。
天皇を中心とした政治の形がここで決まりました。 - 養老律令(718年)
大宝律令をもとにして、内容を整理・改めた律令です。
平安時代に入ってからも、この養老律令が使われ続けました。
これらの法律によって、国の役人の仕事や、地方の治め方、税の仕組みが細かく決められていました。
土地と税のしくみ ― 班田収授法
律令制度の中でも、とくに大切なのが 班田収授法(はんでんしゅうじゅほう) です。
これは、
👉 国が人々に田んぼを分け与え、亡くなったら返してもらう
という仕組みでした。
人々は、与えられた田んぼでお米を作り、その一部を 税 として国に納めます。
こうすることで、国は安定して税を集められるはずでした。
なぜ律令制度はうまくいかなくなったの?
ところが、平安時代が進むにつれて、律令制度はだんだんとうまく働かなくなっていきます。
理由はいくつかあります。
- 人口が増えて、田んぼが足りなくなった
- 班田収授法をきちんと行うのが難しくなった
- 貴族や寺社が、自分たちの土地を増やしていった
こうして生まれたのが、のちに重要になる 荘園(しょうえん) です。
荘園が増えると、国に税が入らなくなり、律令国家の力は弱まっていきました。
この変化が、平安時代の政治や社会を大きく動かすことになります。
律令制度のゆるみが生んだ変化
律令制度がしっかりしていたころは、
「法律」と「役人」によって国は治められていました。
しかし制度がゆるむと、
- 地方の治安が悪くなる
- 争いが起こりやすくなる
- 武力を持つ人が必要になる
といった問題が生まれます。
この流れの先に、武士の登場があります。
つまり律令制度の変化は、平安時代の終わりだけでなく、日本の歴史全体を動かすきっかけにもなったのです。
クイズ②
次のうち、律令制度の説明として正しいものはどれでしょう?
- 天皇や貴族の気分で政治を行うしくみ
- 武士が力で国を治めるしくみ
- 法律にもとづいて国を治めるしくみ
正解は 3 です。
👉 律令制度は、法律(律と令)にもとづいて国を治める仕組みでした。
平安時代の政治と摂関政治
平安時代の政治は、はじめのころと後のころで大きく姿を変えていきました。
その変化の中心にあったのが、天皇の政治から、貴族による政治への移り変わりです。
天皇を中心とした政治のしくみ
平安時代の初め、日本は 天皇が国の中心に立つ政治 を行っていました。
律令制度にもとづき、天皇の命令を受けて、貴族や役人たちが政治を進めていました。
ただし、天皇はすべてを一人で決めていたわけではありません。
実際の政治は、多くの貴族が話し合いながら進めており、天皇はその頂点に立つ存在でした。
摂政と関白とは何か
やがて、政治の中心に立つ特別な役職が生まれます。それが
摂政(せっしょう) と 関白(かんぱく) です。
- 摂政:
子どもや女性など、政治を行うのが難しい天皇の代わりに政治を行う役職 - 関白:
成人した天皇を助けながら、実際の政治を取り仕切る役職
どちらも、天皇のすぐそばで政治を動かす、とても強い力を持つ立場でした。
摂関政治とはどんな政治?
摂政や関白が中心となって行う政治を、摂関政治(せっかんせいじ) といいます。
この政治の大きな特徴は、
👉 天皇ではなく、天皇を支える貴族が政治の実権をにぎったこと
です。
とくに、この摂政・関白の役職をほぼ独占したのが 藤原氏 でした。
藤原氏は、天皇の親族になることで、政治の中心に立ち続けます。
なぜ藤原氏は政治を動かせたのか
藤原氏は、武力ではなく、血縁関係 を使って力を伸ばしました。
- 天皇の母になる女性を藤原氏から出す
- 天皇の外祖父(母方の祖父)になる
- 摂政・関白の地位につく
こうした方法によって、藤原氏は
天皇の代わりに政治を行う立場 を確保していったのです。
この仕組みは、争いを少なくする一方で、
👉 政治が一部の貴族にかたよる原因
にもなっていきました。
摂関政治がもたらした影響
摂関政治が続いたことで、都では安定した政治が行われ、
文学や文化が大きく発展しました。
しかしその一方で、
- 地方の問題が見えにくくなった
- 国の税が集まりにくくなった
- 地方の治安が悪化した
といった問題も広がっていきます。
こうした 政治のかたより が、のちに武士の活躍を必要とする社会へとつながっていきました。
藤原氏が力をもった理由
平安時代の政治を語るうえで、欠かすことができないのが 藤原氏(ふじわらし) です。
藤原氏は、長いあいだ摂政や関白の地位を独占し、平安時代の政治の中心に立ち続けました。
では、なぜ藤原氏はそれほど強い力を持つことができたのでしょうか。
藤原氏とはどんな一族?
藤原氏は、もともと 中臣鎌足(なかとみのかまたり) を祖先とする貴族の一族です。
大化の改新で活躍した鎌足は、天智天皇から「藤原」という姓を与えられました。
平安時代になると、藤原氏は多くの家に分かれながらも、
朝廷の中で特別な立場 を保ち続けます。
婚姻政策という戦い方
藤原氏が力をのばした最大の理由は、婚姻(こんいん)政策です。
これは、
👉 自分の娘を天皇の后(きさき)にすることで、天皇の親族になる
という方法です。
天皇の母が藤原氏になると、その父親は
- 摂政
- 関白
といった重要な役職につきやすくなります。
藤原氏は、戦いではなく、家族関係を使って政治を動かしたのです。
藤原道長は何をした人?
藤原氏の中でも、とくに有名なのが
藤原道長(966〜1028年) です。
道長は、
- 娘を次々と天皇の后にし
- 外祖父として政治を動かし
- 摂政・関白として強い権力を持ちました
「この世をば わが世とぞ思ふ…」という和歌からも、
当時の道長の自信と影響力の大きさが伝わってきます。
藤原頼通と平等院鳳凰堂
道長の子が 藤原頼通(992〜1074年) です。
頼通は関白として長く政治を行い、文化の面でも大きな役割を果たしました。
代表的なのが、平等院鳳凰堂(1053年建立) です。
この建物は、極楽浄土を地上に表したものと考えられ、
現在は 国宝 に指定されています。
藤原氏の政治が残したもの
藤原氏の政治によって、都は安定し、
文学や美術などの文化が大きく花開きました。
一方で、政治が藤原氏に集中したことで、
- 天皇の力が弱まる
- 地方の問題が見えにくくなる
- 武士が力を持つきっかけになる
といった問題も生まれていきました。
クイズ③
次のうち、藤原氏が政治の力を強めた方法として正しいものはどれでしょう?
- 天皇の親族になることで政治を動かした
- 大きな軍隊を持って戦いに勝った
- 外国と戦争をして土地を広げた
正解は 1 です。
👉 藤原氏は、娘を天皇の后にするなど、婚姻関係を使って政治の中心に立ちました。
荘園制度と経済の変化
平安時代が進むにつれて、日本の社会や経済のしくみは大きく変わっていきました。
その中心にあったのが 荘園(しょうえん)制度 です。
荘園の広がりは、律令制度の弱まりと深く関係しており、
やがて平安時代の政治や社会を大きく動かす原因になります。
荘園とは何か
荘園 とは、
👉 貴族や寺社が持っていた私有地(個人や組織の土地)
のことです。
もともと土地は国のものとされ、班田収授法によって人々に分けられていました。
しかし、開墾(あたらしく田畑をひらくこと)が進むにつれて、
- 新しく開いた土地を自分のものにしたい
- 税を軽くしたい
と考える人が増えていきます。
こうして、貴族や寺社が管理する荘園が、少しずつ広がっていきました。
なぜ荘園は増えていったの?
荘園が増えた大きな理由の一つが、
税をおさえられるしくみ にありました。
荘園の多くは、
- 不輸の権(ふゆのけん):税を国に納めなくてよい
- 不入の権(ふにゅうのけん):国の役人が勝手に入れない
といった特別な権利を持っていました。
これらをまとめて 不輸不入権 と呼びます。
この権利があると、荘園の持ち主は安心して土地を管理でき、
農民にとっても、国の重い税から逃れられる場合がありました。
国司と荘園の関係
地方を治める役人である 国司(こくし) は、本来、国のために税を集める立場でした。
しかし荘園が増えると、税を取れる土地が減り、国司の力は弱まっていきます。
中には、
- 荘園を守る代わりに利益を得る
- 自分自身が荘園を持つ
といった国司も現れました。
こうして、国のルールよりも、個人の力が重視される社会へと変わっていきます。
荘園の広がりがもたらした問題
荘園が増えた結果、国には次のような問題が起こりました。
- 税が集まらず、国の財政が苦しくなる
- 地方の政治や治安を十分に管理できなくなる
- 自分の土地を守るために、武力が必要になる
つまり荘園制度は、
👉 武士が活躍する社会を生み出す土台
になったのです。
クイズ④
次のうち、荘園の特徴として正しいものはどれでしょう?
- すべて国が直接管理していた土地
- 税を納めなくてよい特別な権利を持つ土地
- 都の中にだけ作られた土地
正解は 2 です。
👉 荘園には不輸不入権があり、国に税を納めなくてよい場合がありました。
地方の政治と治安の問題
平安時代の政治は、都(みやこ)では比較的安定していましたが、
地方ではさまざまな問題が起こっていました。
この「都と地方の差」が、のちの歴史を大きく動かすことになります。
国司とはどんな役人?
平安時代、地方は「国(くに)」という単位に分けられ、それぞれに
国司(こくし) という役人が派遣されていました。
国司の主な仕事は、
- 税を集めて都に送る
- 地方の政治や裁判を行う
- 治安を守る
といったもので、本来は 天皇の代わりに地方を治める存在 でした。
受領の時代と地方支配の変化
平安時代の中ごろになると、国司の中でも特に力を持つ
受領(ずりょう) と呼ばれる人たちが現れます。
受領は、
- 任期中に多くの利益を得ようとする
- 地方の有力者と結びつく
- 自分の立場を守るために武力を使う
といった行動をとることがありました。
こうして、国のための政治 から、
自分のための支配 へと、地方政治の性格が変わっていきます。
地方で広がる不安と争い
律令制度が弱まり、荘園が増えると、
地方では次のような問題が起こりました。
- 誰が土地の持ち主なのか分からない
- 税の取り立てをめぐる争い
- 盗みや争いが増える
都から遠い地方ほど、こうした問題は深刻でした。
そのため、人々は
👉 自分たちの土地や命を守ってくれる存在
を求めるようになります。
武力を持つ人々の登場
このような社会の中で重要になってきたのが、
武力を使って争いをおさえる人々 です。
彼らは、
- 弓や刀を使って戦う
- 地方の有力者に仕える
- 土地を守る役割を果たす
ようになり、やがて 武士 と呼ばれるようになります。
つまり、武士は突然あらわれたのではなく、
地方の不安や治安の悪化の中から生まれた存在 だったのです。
都の政治とのずれ
都の貴族たちは、文学や行事、政治の話し合いに力を注いでいました。
しかし地方の現実は、それとは大きく異なっていました。
この 都と地方のずれ が広がったことで、
- 貴族の政治は信頼を失い
- 武士が必要とされ
- 社会の中心が少しずつ変わっていきます
次の章では、
人々のくらしそのもの に目を向けて、
平安時代をさらに深く見ていきましょう。
貴族と庶民のくらし
平安時代のくらしは、身分によって大きくちがっていました。
とくに、都に住む貴族と、地方で生活する庶民とでは、毎日の生活や考え方が大きく異なっていました。
貴族のくらし ― 都の中の華やかな世界
貴族たちは、平安京の都で生活していました。
政治を行うだけでなく、くらしそのものを 美しく、上品にすること を大切にしていました。
- 朝はゆっくりと身支度をする
- 和歌を詠んだり、手紙を書いたりする
- 行事や儀式に参加する
- 季節のうつり変わりを楽しむ
とくに服装は重要で、女性は 十二単(じゅうにひとえ)、
男性は 束帯(そくたい) などを身につけました。
貴族のくらしでは、
👉 学問や芸術のセンスが高く評価された
のです。
庶民のくらし ― 働き続ける毎日
一方、庶民の多くは地方で農業をしながら生活していました。
- 田畑をたがやす
- 米や作物を育てる
- 税として作物を納める
といった、体を使う仕事 が中心でした。
服装も、貴族のような華やかさはなく、
動きやすさを重視した、シンプルなものでした。
また、天候不良や病気、重い税などによって、
生活が苦しくなることも少なくありませんでした。
住まいと食べ物のちがい
貴族の住まいは、
寝殿造(しんでんづくり) と呼ばれる広くて開放的な建物でした。
庭には池や橋があり、自然を楽しめる工夫がされていました。
一方、庶民の住まいは、
土で作られた床や、わらぶき屋根の小さな家が多く、
雨や寒さを防ぐだけで精一杯でした。
食べ物も、
- 貴族:米・魚・野菜を中心に、行事の料理も楽しむ
- 庶民:米や雑穀、野菜が中心
と、大きな差がありました。
身分のちがいが生んだ社会の変化
このような身分によるくらしの差は、
人々の考え方や行動にも影響を与えました。
地方で生活する人々は、
👉 自分たちを守ってくれる存在
を強く求めるようになります。
これが、武士が活躍する土台となり、
やがて社会の中心が変わっていくことにつながっていきます。
クイズ⑤
次のうち、平安時代の庶民のくらしとして正しいものはどれでしょう?
- 十二単を着て和歌を楽しんでいた
- 政治を行い、都で生活していた
- 農業を中心に、税を納めながら生活していた
正解は 3 です。
👉 庶民の多くは地方で農業を行い、作物を税として納めながら生活していました。
平安時代の文学と書物
平安時代は、日本の歴史の中でも 文学が大きく花開いた時代 として知られています。
現在でも読みつがれている物語や日記、和歌の多くが、この時代に生まれました。
では、なぜ平安時代に文学が発達したのでしょうか。
なぜ文学が発達したのか
平安時代の都では、貴族たちが政治だけでなく、
教養(きょうよう)や感性をとても大切にしていました。
和歌が上手に詠めること、
美しい文章を書けること、
手紙で気持ちを上手に伝えられることは、
👉 その人の価値を示す重要な力 だったのです。
また、戦いの少ない時期が長く続いたことで、
人々が心の動きや人間関係に目を向ける余裕を持てたことも、
文学の発展につながりました。
文字の変化が文学を広げた
平安時代の文学を支えた大きなポイントが、
文字の変化 です。
それまでの日本では、主に 漢字 が使われていました。
しかし平安時代になると、漢字をもとにした
- ひらがな
- カタカナ
が使われるようになります。
ひらがなは、やわらかく、気持ちを表しやすい文字でした。
この文字の登場によって、
👉 自分の思いや感情を自由に表現できるようになった
のです。
文学の3つの大きなジャンル
平安時代の文学は、主に次の3つに分けられます。
① 物語文学
長い物語の形で、人の人生や恋、悩みをえがいた作品です。
後の章で紹介する『源氏物語』がその代表です。
② 日記文学
毎日の出来事や気持ちを、自分の目線で書いた文章です。
日記でありながら、文学作品として高く評価されています。
③ 和歌
31音(五・七・五・七・七)で気持ちを表す短い詩です。
平安時代の貴族は、和歌を通して気持ちを伝え合っていました。
文学は政治やくらしともつながっていた
平安時代の文学は、ただの娯楽ではありませんでした。
- 貴族どうしの人間関係
- 男女の恋や結婚
- 政治の立場や争い
- 人の心の弱さや不安
こうしたことが、文学の中にえがかれています。
つまり文学は、
👉 平安時代の人々の考え方やくらしを知る手がかり
でもあるのです。
有名な文学作品と作者たち
平安時代の文学は、**「だれが・どんな立場で・何を書いたのか」**を意識すると、とても理解しやすくなります。
ここでは、学校の学習でもよく出てくる代表的な作品を、作者名と特徴をセットで見ていきましょう。
『源氏物語』と紫式部
- 作品名:源氏物語(げんじものがたり)
- 作者:紫式部(むらさきしきぶ)
- ジャンル:物語文学
『源氏物語』は、光源氏(ひかるげんじ)という貴族の一生をえがいた長い物語です。
恋や人間関係、喜びや悲しみなど、人の心の動きが細かくえがかれています。
紫式部は、学問のある女性で、漢字の知識も豊富でした。
そのため『源氏物語』は、
👉 世界最古の長編小説 とも言われています。
『枕草子』と清少納言
- 作品名:枕草子(まくらのそうし)
- 作者:清少納言(せいしょうなごん)
- ジャンル:日記文学
『枕草子』は、宮中での生活や自然の美しさを、
明るく・はっきりとした言葉で書いた作品です。
有名な書き出し
「春はあけぼの」
からも分かるように、季節の様子をとても大切にしています。
清少納言は、機知(きち)に富み、
👉 頭の回転が速く、はっきりした性格
だったと考えられています。
『伊勢物語』――作者不明の物語
- 作品名:伊勢物語(いせものがたり)
- 作者:はっきりとは分かっていない
- ジャンル:物語文学
『伊勢物語』は、和歌と短い物語を組み合わせた作品です。
主人公は、在原業平(ありわらのなりひら) がモデルだと言われています。
恋の話が多く、
👉 和歌と物語が結びついた初期の作品
として重要です。
『土佐日記』と紀貫之
- 作品名:土佐日記(とさにっき)
- 作者:紀貫之(きのつらゆき)
- ジャンル:日記文学
『土佐日記』は、男性の作者である紀貫之が、
女性のふりをしてひらがなで書いた日記です。
それまでの日記は漢文が中心でしたが、
この作品によって、
👉 日記文学が日本語で書かれるようになった
という大きな変化が起こりました。
『蜻蛉日記』『更級日記』――女性の目線の文学
- 蜻蛉日記(かげろうにっき)
- 作者:藤原道綱母(ふじわらのみちつなのはは)
- 特徴:結婚生活の悩みや心の苦しさを正直にえがく
- 更級日記(さらしなにっき)
- 作者:菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)
- 特徴:物語へのあこがれと、成長していく心の変化
どちらも、
👉 女性の本音や人生がえがかれた日記文学
として重要です。
『古今和歌集』と和歌の文化
- 作品名:古今和歌集(こきんわかしゅう)
- 編者:紀貫之 ほか
- ジャンル:和歌集
『古今和歌集』は、天皇の命令で作られた和歌集です。
恋や自然、人生についての和歌が多く集められています。
この和歌集によって、
👉 和歌が貴族社会の重要な文化
として定着しました。
クイズ⑥
次のうち、『土佐日記』について正しい説明はどれでしょう?
- 紫式部が漢文で書いた日記
- 紀貫之が女性のふりをして書いた日記
- 清少納言が宮中生活を書いた作品
正解は 2 です。
👉 『土佐日記』は、紀貫之が女性になりきって、ひらがなで書いた日記です。
平安時代の宗教と仏教の広がり
平安時代の人々のくらしや考え方を理解するうえで、宗教の存在はとても重要です。
とくに仏教は、政治や文化だけでなく、人々の心の支えとして大きな役割を果たしていました。
奈良時代の仏教とのちがい
平安時代の仏教は、奈良時代の仏教とは性格が少し異なります。
- 奈良時代:
国を守るための「国家仏教」が中心
→ 大きなお寺を建て、天皇や国の安定を願った - 平安時代:
貴族や人々の心に寄りそった仏教が広がる
→ 悩みや不安を救うことが重視される
この変化が、平安時代の宗教の大きな特徴です。
天台宗と真言宗の成立
平安時代のはじめに、新しい仏教の宗派が生まれました。
それが 天台宗 と 真言宗 です。
天台宗 ― 最澄
- 開いた人:最澄(さいちょう/767〜822年)
- 本山:比叡山延暦寺(ひえいざん えんりゃくじ)
天台宗は、
👉 すべての人が仏になれる
という考え方を大切にしました。
比叡山で修行を行い、多くの僧がここで学びました。
真言宗 ― 空海
- 開いた人:空海(くうかい/774〜835年)
- 本山:高野山金剛峯寺(こうやさん こんごうぶじ)
真言宗は、
👉 密教(みっきょう) と呼ばれる特別な教えを重視しました。
お経だけでなく、
- まじない
- 儀式
- 手の形(印)
などを使って、仏の力を感じ取ろうとしたのが特徴です。
密教とは何か
密教 とは、
👉 特別な修行や儀式によって、現世で救われることを目指す教え
です。
難しい教えも多い一方で、
- 病気を治したい
- 災害を防ぎたい
- 不安をなくしたい
といった人々の願いにこたえるものでもありました。
そのため、貴族たちの間で強く支持されていきます。
仏教と政治・貴族の関係
平安時代の貴族たちは、仏教を深く信じていました。
- 寺を建てる
- 仏像を作る
- お経を写す(写経)
といったことを行い、
👉 自分や家族の幸せ、死後の安らぎ
を願っていました。
仏教は、政治の道具というよりも、
不安な世の中を生きるための心の支え
として広がっていったのです。
宗教の広がりがもたらしたもの
仏教の広がりは、次のような影響を与えました。
- 人々の死生観が変わる
- 美しい仏像や寺院が生まれる
- 文化や芸術が発展する
このあと見ていく 浄土信仰や神仏習合 は、
こうした流れの中で生まれていきます。
信仰の多様化と人々の心
平安時代の後半になると、人々の信仰はさらに 多様(たよう) になっていきました。
その背景には、病気・災害・争いなど、先の見えない不安な世の中があります。
人々は、
👉「どうすれば安心して生きられるのか」
👉「死んだ後はどうなるのか」
を、強く考えるようになりました。
浄土信仰とは何か
こうした不安の中で広がったのが、浄土信仰(じょうどしんこう) です。
浄土信仰では、
阿弥陀如来(あみだにょらい) という仏を信じ、
👉「阿弥陀如来を信じれば、死後に極楽浄土へ行ける」
と考えました。
極楽浄土とは、
苦しみのない、平和で美しい世界のことです。
なぜ浄土信仰が広がったのか
平安時代の後半は、
- 疫病(えきびょう)が流行する
- 天災が続く
- 戦乱が起こる
など、人々にとって つらい出来事 が多くありました。
難しい修行をしなくても、
👉 信じる気持ちがあれば救われる
という浄土信仰は、多くの人の心を支えました。
この信仰は、貴族だけでなく、
庶民にも少しずつ広がっていきます。
阿弥陀如来と極楽浄土のイメージ
阿弥陀如来は、
やさしい表情をした仏として表されることが多く、
- 人々を救う
- 死後、極楽へ導く
存在だと考えられていました。
この考えを形にしたものが、
平等院鳳凰堂(1053年) の阿弥陀如来像です。
建物や仏像は、
👉 極楽浄土をこの世に表したもの
とされ、信仰と文化が結びついていきました。
信仰は人々の心をどう支えたのか
信仰は、単に宗教の教えというだけではありません。
平安時代の人々にとって信仰は、
- 不安な心を落ち着かせる
- 生きる意味を考える
- つらい現実を乗りこえる
ための 心のよりどころ でした。
このように、
平安時代の信仰は、
👉 人々のくらしや感情と深く結びついていた
のです。
クイズ⑦
次のうち、浄土信仰の考え方として正しいものはどれでしょう?
- 阿弥陀如来を信じれば、死後に極楽浄土へ行ける
- 厳しい修行をした人だけが救われる
- 武力で国を守ることが最も大切だと考える
正解は 1 です。
👉 浄土信仰では、阿弥陀如来を信じることで極楽浄土へ行けると考えました。
神仏習合・陰陽道・占い
平安時代の信仰の大きな特徴は、
ひとつの宗教だけを信じていたわけではない という点です。
人々は、
- 仏教
- 神への信仰
- 占いやまじない
を組み合わせながら、不安な毎日を生きていました。
神仏習合とは何か
神仏習合(しんぶつしゅうごう) とは、
👉 日本の神と仏を同時に信じる考え方
のことです。
平安時代の人々は、
- 神は仏のあらわれ
- 仏は神の姿を借りて現れる
と考え、
神社と寺をはっきり分けることはありませんでした。
そのため、
- 神社の中にお寺がある
- お寺で神をまつる
といったことが、当たり前に行われていました。
神への信仰と日常生活
日本では古くから、
- 山
- 川
- 木
- 雷や風
などの自然の中に、神がいると考えられてきました。
平安時代の人々も、
- 豊作を願う
- 災害を防ぐ
- 病気を治したい
といった願いを、神に祈っていました。
こうした 自然と結びついた信仰 が、
仏教と結びついていったのです。
陰陽道とはどんな考え方?
平安時代に広く信じられたもう一つの考え方が、
陰陽道(おんみょうどう) です。
陰陽道は、
- 世の中は「陰」と「陽」のバランスで成り立っている
- 日のよい日・悪い日がある
と考える考え方です。
そのため、
- 引っこしの日
- 結婚
- 旅立ち
などは、
👉 占いによって日を決める
ことが多くありました。
陰陽師と安倍晴明
陰陽道を専門に行う人を 陰陽師(おんみょうじ) といいます。
中でも有名なのが、
安倍晴明(あべのせいめい/921〜1005年) です。
安倍晴明は、
- 占い
- まじない
- 天文(星の動き)の知識
を使い、天皇や貴族たちの相談にのっていました。
その不思議な力から、
👉 伝説的な人物
として、今でも物語や漫画に登場します。
なぜ占いやまじないが信じられたのか
科学が発達していなかった平安時代では、
- 病気の原因
- 天災の理由
- 争いの起こるわけ
が、はっきり分からないことも多くありました。
そこで人々は、
👉「目に見えない力が世の中を動かしている」
と考え、占いやまじないに救いを求めたのです。
平安時代の信仰の特徴まとめ
平安時代の信仰は、
- 仏教
- 神への信仰
- 陰陽道
- 占い
が重なり合った、とても 柔軟な信仰 でした。
それは、
👉 不安な時代を生き抜くための知恵
でもあったのです。
怨霊信仰と菅原道真
平安時代の人々は、
不幸な出来事や災害は、人の強い思いによって起こる
と考えることがありました。
この考え方と深く結びついているのが、怨霊信仰(おんりょうしんこう) です。
怨霊とは何か
怨霊 とは、
👉 強い恨みや悲しみを残したまま亡くなった人のたましい
のことです。
平安時代の人々は、
- 急な病気
- 雷や大火
- 天変地異
が起こると、
👉「だれかの怨霊のたたりではないか」
と考えることがありました。
科学的な説明ができない時代だからこそ、
人々は出来事の理由を 人の心 に結びつけて考えたのです。
菅原道真はどんな人?
怨霊信仰と深く結びついて語られる人物が、
菅原道真(すがわらのみちざね/845〜903年) です。
菅原道真は、
- 学問にすぐれた人物
- 漢詩や文章が得意
- 宇多天皇に信頼された政治家
として活躍しました。
当時としてはめずらしく、
👉 家柄よりも学問の力で出世した人物
だったことが特徴です。
左遷と悲しい最期
しかし、政治の中で対立が起こり、
道真は 藤原氏の反対 を受けて、
- 901年
- 九州の 太宰府(だざいふ)
へと左遷(遠くへ追い出されること)されてしまいます。
慣れない土地での苦しい生活の中、
道真は2年後の 903年に亡くなりました。
道真の死と天変地異
道真の死後、都では不思議な出来事が続きます。
- 雷が宮中に落ちる
- 病気が広がる
- 若い貴族が次々と亡くなる
人々はこれを、
👉 道真の怨霊のたたり
だと考えました。
そのため、道真の名誉を回復し、
神としてまつることで、
災いをおさえようとしたのです。
天神信仰と学問の神様
こうして菅原道真は、
天神(てんじん) としてまつられるようになります。
- 北野天満宮(京都)
- 太宰府天満宮(福岡)
など、全国に 天満宮 が広がりました。
現在では、
👉 学問の神様
として信仰され、受験前にお参りする人も多くいます。
怨霊信仰が教えてくれること
怨霊信仰は、単なる迷信ではありません。
それは、
- 権力争いのこわさ
- 人の恨みや悲しみ
- 社会の不安
を、人々がどう受け止めていたかを示しています。
つまり怨霊信仰は、
👉 平安時代の人々の心のあり方
を知る大切な手がかりなのです。
クイズ⑧
次のうち、菅原道真について正しいものはどれでしょう?
- 武士として戦いで活躍した
- 平安京を作った天皇である
- 学問にすぐれ、のちに天神としてまつられた
正解は 3 です。
👉 菅原道真は学問にすぐれ、死後に天神として信仰されました。
平安時代の文化と国宝
平安時代は、政治だけでなく、日本らしい文化が大きく花開いた時代でもあります。
この時代に生まれた文化は、のちに 国風文化(こくふうぶんか) と呼ばれ、日本独自の美しさを形づくりました。
国風文化とは何か
国風文化 とは、
👉 中国の文化をまねるのではなく、日本の風土や感性を大切にした文化
のことです。
奈良時代までは、中国(唐)の文化を学ぶことが重視されていました。
しかし平安時代になると、
- 日本語(ひらがな)
- 日本の自然や季節
- 日本人の心の動き
を大切にする文化が広がっていきます。
文学・美術・建築など、さまざまな分野で
「日本らしさ」がはっきりと表れるようになりました。
平等院鳳凰堂 ― 極楽浄土を表した建物
平安時代の代表的な国宝が、
平等院鳳凰堂(びょうどういん ほうおうどう) です。
- 建てられた年:1053年
- 建てた人:藤原頼通
鳳凰堂は、
👉 極楽浄土をこの世に表した建物
と考えられています。
池に映る姿や、左右に広がる形は、
人々に「死後の安らぎ」を感じさせるものでした。
阿弥陀如来像 ― やさしさを表した仏像
鳳凰堂の中には、
阿弥陀如来像(あみだにょらいぞう) が安置されています。
この仏像の特徴は、
- おだやかな表情
- やさしく人を迎える姿
です。
力強さよりも、
👉 安心感や救い
を表している点が、平安時代らしい特徴です。
絵巻物 ― 物語を絵で伝える文化
平安時代には、文章と絵を組み合わせた
絵巻物(えまきもの) も発達しました。
代表的な国宝が、
『源氏物語絵巻』 です。
- 物語の場面を絵で表す
- 登場人物の気持ちを色や表情で伝える
ことで、文字が読めない人にも、
👉 物語の世界が伝わる工夫
がされていました。
平安仏像の特徴
平安時代の仏像は、奈良時代の仏像と比べて、
- 表情がやわらかい
- 体つきが丸みを帯びている
- 見る人に安心感を与える
といった特徴があります。
これは、
👉 人々の心を救うことを大切にした信仰
が、仏像の形にも表れているからです。
文化と信仰・政治のつながり
平安時代の文化は、
- 藤原氏の政治
- 仏教や浄土信仰
- 人々の不安や願い
と深く結びついていました。
国宝として残る建物や仏像は、
👉 当時の人々の生き方や心そのもの
を今に伝えてくれているのです。
クイズ⑨
次のうち、平安時代の国風文化の特徴として正しいものはどれでしょう?
- 日本の自然や感性を大切にした文化
- 中国の文化をそのまま取り入れた文化
- 武士の戦いを中心にした文化
正解は 1 です。
👉 国風文化は、日本らしさや人々の感性を大切にした文化でした。
平安時代の争いと戦乱
平安時代は「文化が栄えたおだやかな時代」と思われがちですが、
実は 各地で争いや戦乱が起こった時代 でもありました。
とくに、地方の不安や政治のゆるみが、
大きな争いへとつながっていきます。
なぜ争いが起こるようになったのか
争いが増えた背景には、次のような理由があります。
- 律令制度が弱まり、国の力が落ちた
- 荘園が増え、土地の支配をめぐる争いが起こった
- 地方の治安を守る仕組みが不十分だった
都の政治が安定している一方で、
地方では
👉 「自分たちの土地は自分たちで守るしかない」
という状況が広がっていたのです。
平将門の乱(935年)
平安時代の地方で起こった大きな争いの一つが、
平将門の乱(935年) です。
平将門(たいらのまさかど)は、
関東地方で勢力を持った武士でした。
将門は、
- 土地の支配をめぐる争い
- 国司への不満
などから反乱を起こし、
👉 自らを「新皇(しんのう)」と名乗りました。
これは、天皇に逆らう行為であり、
朝廷にとって大きな衝撃でした。
藤原純友の乱(939年)
ほぼ同じころ、西日本では
藤原純友(ふじわらのすみとも) が反乱を起こします。
これが、
藤原純友の乱(939年) です。
純友は、瀬戸内海で海賊のような行動をとり、
各地を攻撃しました。
この二つの乱は、
👉 東と西で同時に起こった地方の反乱
として、平安時代の大きな転換点となりました。
争いが示した社会の変化
平将門の乱と藤原純友の乱は、
朝廷の力だけでは、地方の争いをおさえられないことを示しました。
そのため、
- 武力を持つ人が必要とされる
- 武士が活躍する場が増える
という流れが強まっていきます。
つまり、これらの争いは、
👉 武士の時代への入り口
だったのです。
争いと人々の心
戦いや争いは、
- くらしを不安定にする
- 人々に恐れを与える
ものでした。
その不安は、
- 浄土信仰
- 怨霊信仰
- 占いやまじない
といった信仰の広がりとも、深く結びついています。
クイズ⑩
次のうち、平将門の乱について正しいものはどれでしょう?
- 平安京で起こった貴族どうしの争い
- 関東地方で起こり、将門が新皇を名乗った反乱
- 平氏と源氏が全国で戦った戦争
正解は 2 です。
👉 平将門の乱は、関東地方で起こり、将門が新皇を名乗った反乱でした。
武士の登場と都の争い
地方で力をつけた武士たちは、しだいに 都の政治にも関わる存在 になっていきました。
こうして平安時代の後半には、都そのものが争いの場になる出来事が起こります。
武士はどのようにして都へ進出したのか
もともと武士は、
- 荘園を守る
- 地方の争いをおさえる
といった役割を担っていました。
しかし、朝廷や貴族が
👉 自分たちだけでは争いをおさえられなくなった
ことで、武士を都の争いにも使うようになります。
こうして、武士は
地方の存在 → 政治に関わる存在
へと変わっていきました。
保元の乱(1156年)
都で起こった大きな争いの一つが、
保元の乱(ほうげんのらん/1156年) です。
この争いは、
- 天皇どうしの対立
- 貴族どうしの争い
が重なって起こりました。
ここで重要なのは、
👉 武士が朝廷側について戦ったこと
です。
源氏と平氏という、後に重要になる武士の一族が、
この争いで活躍しました。
平治の乱(1159年)
保元の乱の数年後、
平治の乱(へいじのらん/1159年) が起こります。
この争いでは、
- 平清盛(たいらのきよもり)
- 源義朝(みなもとのよしとも)
が対立しました。
結果として勝利したのは 平清盛 です。
この勝利によって、平氏は政治の中心へと進みます。
武士が政治の主役になっていく
平治の乱以降、
平清盛は朝廷の中で重要な役職につき、
👉 武士として初めて本格的に政治を動かす存在
となりました。
これは、
- 貴族だけが政治を行う時代
から - 武士も政治を行う時代
への大きな変化でした。
都の争いが意味するもの
保元の乱・平治の乱は、
- 貴族の力が弱まったこと
- 武士の力が認められたこと
をはっきりと示しています。
平安時代は、
👉 静かな文化の時代から、動きのある時代へ
と変わりつつあったのです。
クイズ⑪
次のうち、保元の乱・平治の乱について正しいものはどれでしょう?
- 地方の農民が中心となって起こした反乱
- 外国との戦争として起こった争い
- 天皇や貴族の争いに武士が関わった都の戦い
正解は 3 です。
👉 保元の乱・平治の乱は、都で起こり、武士が政治の争いに関わった重要な戦いでした。
源氏と平氏、平安時代の終わり
保元の乱・平治の乱を経て、
平安時代はいよいよ 大きな転換点 を迎えます。
その中心にいたのが、源氏(げんじ)と平氏(へいし) という二つの武士の一族です。
平清盛と平氏の台頭
平治の乱に勝った 平清盛(1118〜1181年) は、
武士でありながら、朝廷の中で高い地位につきました。
- 太政大臣になる
- 娘を天皇の后にする
- 貴族と同じように政治を行う
これは、
👉 武士が貴族の社会に入り込んだ初めての例
でした。
平氏は栄えましたが、その政治は
貴族や他の武士から反発を受けるようになります。
源氏の再起と源頼朝
一方、平治の乱で敗れた源氏は、
しばらく力を失っていました。
しかし、源頼朝(1147〜1199年) が成長すると、
再び立ち上がります。
1180年、源頼朝は
👉 平氏を倒すために兵を挙げました。
これが、後に 源平合戦 と呼ばれる戦いの始まりです。
源平合戦(1180〜1185年)
源平合戦 は、
源氏と平氏が全国で戦った大きな戦争です。
この戦いには、
- 源頼朝
- 源義経(1159〜1189年)
といった人物が活躍しました。
とくに源義経は、
すばやい作戦で平氏を追いつめ、
多くの戦いで勝利をおさめました。
壇ノ浦の戦いと平氏の滅亡
1185年、
壇ノ浦の戦い(だんのうらのたたかい) が起こります。
この戦いで、
平氏は大きく敗れ、
一族はほぼ滅びてしまいました。
これによって、
👉 約400年続いた平安時代は終わりを迎えます。
鎌倉時代へ ― 歴史の大きな変化
源平合戦のあと、
源頼朝は鎌倉に拠点を置き、
武士による新しい政治を始めます。
こうして日本は、
- 貴族が中心の時代
から - 武士が中心の時代
へと、大きく変わっていきました。
平安時代は、
👉 次の時代を生み出すための準備の時代
でもあったのです。
クイズ⑫
次のうち、平安時代の終わりを決定づけた出来事はどれでしょう?
- 源平合戦と壇ノ浦の戦い
- 大宝律令の制定
- 平安京への遷都
正解は 1 です。
👉 源平合戦の最後、壇ノ浦の戦いで平氏が滅び、平安時代は終わりました。
自由研究に使えるテーマ例(平安時代)
平安時代は、政治・くらし・文学・宗教・戦いなど、
さまざまな視点から調べられる時代です。
ここでは、小学校中学年〜中学生まで取り組みやすい自由研究テーマを紹介します。
テーマ① 貴族と庶民のくらしを比べてみよう
調べるポイント
- 住んでいた場所(都と地方)
- 食べ物・服装・住まい
- 1日の生活の流れ
まとめ方の例
- 表にして比べる
- イラストで「貴族の家」「庶民の家」を描く
👉 社会科+生活の視点でまとめやすいテーマです。
テーマ② なぜ平安時代に文学が発達したのか
調べるポイント
- ひらがなの誕生
- 貴族のくらしと教養
- 和歌や手紙の役割
まとめ方の例
- 『源氏物語』『枕草子』の共通点・ちがい
- 「もし漢字しかなかったら?」と考えてみる
👉 国語と社会をつなげた探究におすすめです。
テーマ③ 『源氏物語』はなぜ今も読まれているのか
調べるポイント
- 作者:紫式部
- どんな話か(あらすじ)
- 人の心のえがき方
まとめ方の例
- 現代の物語や漫画との共通点を探す
- 好きな登場人物を選んで紹介する
👉 読書感想+自由研究としても使えます。
テーマ④ 藤原道長はどんな政治をしたのか
調べるポイント
- 摂関政治とは何か
- 婚姻政策のしくみ
- 藤原氏が力を持った理由
まとめ方の例
- 系図を描いて関係を整理する
- メリット・デメリットを考える
👉 歴史の「しくみ」を考える力がつきます。
テーマ⑤ 菅原道真はなぜ神様になったのか
調べるポイント
- 菅原道真の生涯
- 左遷された理由
- 怨霊信仰と天神信仰
まとめ方の例
- 年表で人生を整理する
- 「なぜ人々は神としてまつったのか」を考える
👉 人の感情と社会のつながりが見えるテーマです。
テーマ⑥ 平安時代の人々はなぜ仏教を信じたのか
調べるポイント
- 浄土信仰
- 極楽浄土の考え方
- 病気・災害・戦乱との関係
まとめ方の例
- 当時の人の「不安」を書き出す
- 現代の不安と比べてみる
👉 人間の気持ちに注目した探究になります。
テーマ⑦ 平安時代の戦いは社会をどう変えたか
調べるポイント
- 平将門の乱・藤原純友の乱
- 保元の乱・平治の乱
- 源平合戦
まとめ方の例
- 戦い→変化→結果 を矢印で整理
- 「なぜ武士の時代になったのか」を考える
👉 鎌倉時代につながる良いテーマです。
テーマ⑧ 平安時代の国宝からわかる人々の願い
調べるポイント
- 平等院鳳凰堂
- 阿弥陀如来像
- 源氏物語絵巻
まとめ方の例
- 写真やイラストを使って紹介
- 「何を願って作られたのか」を考える
👉 図工・美術とつなげることもできます。
自由研究をうまくまとめるコツ
- 「なぜ?」「どうして?」を1つ決める
- 事実+自分の考えを書く
- 図・表・イラストを使う
平安時代は、
👉 「人はなぜ悩み、どう生きようとしたのか」
を考えられる、とてもおもしろい時代です。
おさらいクイズ(平安時代)
クイズ①
次のうち、平安時代が始まったきっかけとして正しいものはどれでしょう?
- 源平合戦が起こった
- 鎌倉に幕府が作られた
- 都が平安京に移された
正解は 3 です。
👉 794年に桓武天皇が都を平安京へ移したことから、平安時代が始まりました。
クイズ②
次のうち、摂関政治の説明として正しいものはどれでしょう?
- 摂政や関白が天皇を助けて政治を行った
- 武士が全国を武力で支配した
- 天皇がすべて一人で政治を行った
正解は 1 です。
👉 摂関政治では、摂政や関白が政治の中心となりました。
クイズ③
次のうち、藤原道長について正しいものはどれでしょう?
- 武士として戦いで活躍した
- 摂関政治の中心人物として大きな力を持った
- 鎌倉幕府を開いた
正解は 2 です。
👉 藤原道長は摂政・関白として、平安時代中期の政治を動かしました。
クイズ④
次のうち、浄土信仰の考え方として正しいものはどれでしょう?
- 力の強い人だけが救われる
- 阿弥陀如来を信じれば極楽浄土へ行ける
- 戦いに勝つことが一番大切だと考える
正解は 2 です。
👉 浄土信仰では、阿弥陀如来を信じる心が救いにつながると考えました。
クイズ⑤
次のうち、平安時代の終わりにつながった出来事はどれでしょう?
- 平安京への遷都
- 大宝律令の制定
- 源平合戦と壇ノ浦の戦い
正解は 3 です。
👉 源平合戦の最後、壇ノ浦の戦いで平氏が滅び、平安時代は終わりました。
まとめ|平安時代から見えてくること
平安時代は、794年に平安京に都が移されてから、1185年に源平合戦が終わるまで、およそ400年続いた長い時代でした。
この時代の前半は、
- 律令制度にもとづく政治
- 藤原氏による摂関政治
- 貴族を中心とした安定した社会
が見られ、
文学や美術など、日本らしい文化(国風文化) が大きく花開きました。
一方で、時代が進むにつれて、
- 荘園が増えて国の力が弱まる
- 地方の治安が悪化する
- 武士が必要とされるようになる
といった変化が起こります。
人々は、
- 仏教や浄土信仰
- 神仏習合や陰陽道
- 怨霊信仰
などを通して、不安な世の中を生き抜こう としていました。
やがて、
平将門の乱や藤原純友の乱、
保元の乱・平治の乱、
そして源平合戦へと争いが広がり、
政治の中心は貴族から武士へ と移っていきます。
つまり平安時代は、
👉 文化が最も美しく発展した時代であり、
👉 同時に、次の時代(鎌倉時代)へ向かって大きく動いた時代
だったのです。
文学・宗教・政治・くらし・争い――
これらを「人々の気持ち」という視点で見ることで、
平安時代は、ただの昔の出来事ではなく、
今の社会につながる“人間の歴史” として見えてきます。
この記事を書いた人
西田 俊章(MOANAVIスクールディレクター/STEAM教育デザイナー)
公立小学校で20年以上、先生として子どもたちを指導し、教科書の執筆も担当しました。
現在はMOANAVIを運営し、子どもたちが「科学・言語・人間・創造」をテーマに学ぶ場をデザインしています。



