
なぜ日本には、天皇を中心とした国が生まれたのでしょうか。
どうして決まりや制度が必要になったのでしょうか。
その答えを考えるヒントがつまっているのが、飛鳥時代 です。
飛鳥時代は、豪族が力を争っていた社会から、
話し合いや決まりで国を治めようとする社会へと、
大きく変わっていった時代でした。
聖徳太子や推古天皇の国づくり、
小野妹子による外国との交流、
大化の改新による政治の改革、
そして法隆寺に残る木造建築や国宝の数々――
飛鳥時代には、日本の「国のはじまり」を知る手がかりがたくさんあります。
この教材では、
飛鳥時代の政治・文化・技術を、
小学生・中学生にも分かりやすく解説します。
日本がどのように国へと成長していったのか、
飛鳥時代から一緒に見ていきましょう。
飛鳥時代とは?いつから始まり、どんな特徴がある時代なのか
飛鳥時代(あすかじだい)は、日本で 本格的な国づくりが始まった時代 です。
この時代には、天皇を中心とした政治が進められ、
法律や制度、外国との交流など、
それまでとは大きくちがう社会のしくみが生まれました。
飛鳥時代は、今からおよそ 1400年前、
6世紀の終わりごろから7世紀 にかけて続いたと考えられています。
その前の古墳時代が、王や豪族の力をもとにした社会だったのに対し、
飛鳥時代は、
「国としてどうまとまるか」
が本気で考えられるようになった時代です。
「飛鳥」という名前は、
政治や文化の中心となった 奈良県の飛鳥地方 に由来しています。
この地域には、当時の都や寺、遺跡が多く残っており、
飛鳥時代のようすを知る手がかりがたくさん見つかっています。
飛鳥時代の大きな特徴の一つは、
天皇を中心に国を治めようとしたこと です。
豪族どうしの争いを減らし、
国を安定させるためには、
みんなが従う中心となる存在が必要でした。
また、この時代には 仏教 が本格的に広まりました。
仏教は、心のよりどころであると同時に、
国をまとめる考え方としても大切にされました。
そのため、寺が建てられ、
文化や技術も大きく発展していきます。
さらに、飛鳥時代には
中国など外国の進んだ制度や文化を学び、
日本の国づくりに生かそうとしました。
この「学んで取り入れる姿勢」も、
飛鳥時代を特徴づける大切なポイントです。
クイズ①
次のうち、飛鳥時代の大きな特徴として正しいものはどれでしょう?
- 村ごとにばらばらに政治が行われていた
- 天皇を中心に国をまとめようとした
- 狩りや採集が生活の中心だった
正解は 2 です。
👉 飛鳥時代には、天皇を中心に国を治めるしくみが進められました。
古墳時代から飛鳥時代へ|社会と政治はどう変わった?
古墳時代から飛鳥時代にかけて、日本の社会は大きく変わりました。
この変化のポイントは、だれが国を動かすのか、
そして どんな仕組みで人々をまとめるのか という点です。
古墳時代は、
王や豪族とよばれる力のある一族が、
それぞれの地域を治めていました。
大きな古墳を作ることで、自分たちの力を示し、
人々を従わせていたのです。
しかし、豪族どうしの争いが増えると、
国全体が不安定になります。
「力の強い一族どうしが争う社会」には、
限界が見えてきました。
そこで考えられたのが、
天皇を中心にして国をまとめる という考え方です。
天皇という一人の中心があることで、
豪族どうしの争いをおさえ、
国を一つにまとめやすくなると考えられました。
また、飛鳥時代には、
「決まり」や「考え方」をはっきりさせることも重視されます。
だれが上で、だれがどんな役割を持つのかを決めることで、
国を安定させようとしたのです。
このように、
古墳時代が 力を示す時代 だとすれば、
飛鳥時代は 決まりや仕組みで治めようとした時代 だと言えます。
この変化が、のちの本格的な国づくりへとつながっていきました。
クイズ②
次のうち、古墳時代から飛鳥時代への変化として正しいものはどれでしょう?
- 豪族どうしの争いを減らすため、天皇を中心に国をまとめようとした
- 狩りや採集にもどり、農業をやめた
- 古墳がすべてこわされ、なくなった
正解は 1 です。
👉 飛鳥時代には、天皇を中心にして国を安定させようとする動きが進みました。
聖徳太子と推古天皇が進めた国づくり
飛鳥時代の国づくりを進めた中心人物が、
聖徳太子(しょうとくたいし) と 推古天皇(すいこてんのう) です。
推古天皇は日本で最初の女性天皇で、
聖徳太子はそのもとで摂政となり(593年)政治を行いました。
二人が目指したのは、
豪族の力だけに頼らず、決まりによって国を治めること でした。
そのために作られたのが、
冠位十二階 と 十七条の憲法 です。
冠位十二階とは?色と意味で分かる身分のしくみ
冠位十二階(かんいじゅうにかい) (603年)は、
役人のえらさを 冠(かんむり)の色 で表した制度です。
それまでの日本では、
「生まれのよさ」で地位が決まることが多くありました。
しかし聖徳太子は、
能力や働きによって評価する しくみを作ろうとしました。
冠位十二階は、えらい順に次のようになっています。
- 紫(むらさき)…いちばんえらい
- 青(あお)
- 赤(あか)
- 黄(き)
- 白(しろ)
- 黒(くろ)
それぞれに「大」と「小」があり、
全部で12の位 になります。
紫はとても貴重な色で、
簡単には手に入らなかったため、
「本当にえらい人」だけが身につけることができました。
この制度によって、
人々は
「よい働きをすれば、えらくなれる」
と考えるようになり、
国の政治が少しずつ整っていきました。
十七条の憲法とは?17の教えをやさしく理解しよう
十七条の憲法 (604年)は、
今でいう法律というより、
政治を行う人の心がまえをまとめた決まり です。
ここでは、17条すべてを簡単に見ていきましょう。
- 和を大切にしなさい
みんなで仲よく話し合うことが大切。 - 天皇をうやまいなさい
国の中心として天皇を大切にする。 - 命令にはしたがいなさい
決まりを守らないと国はまとまらない。 - 礼を大切にしなさい
正しいふるまいが社会を支える。 - 私欲をすてなさい
自分の利益だけを考えてはいけない。 - 悪いことは正しなさい
まちがいを見て見ぬふりをしない。 - 役割を大切にしなさい
それぞれの立場で仕事をする。 - 朝早くから仕事をしなさい
政治は真面目に行うもの。 - 信用を大切にしなさい
うそをつくと社会は成り立たない。 - 怒りをおさえなさい
感情だけで判断しない。 - 功績を正しく評価しなさい
がんばった人をきちんと認める。 - 勝手に税をとってはいけない
国の決まりにしたがう。 - 職務をさぼってはいけない
役人は責任をもつ。 - えこひいきをしない
公平に判断する。 - 私的な争いを仕事に持ちこまない
公の仕事を大切にする。 - 民(たみ)を大切にしなさい
国は人々がいてこそ成り立つ。 - 大事なことは話し合って決めなさい
一人で決めず、相談する。
これらから分かるのは、
十七条の憲法が
争いを減らし、話し合いで国を治めようとする考え方
にもとづいていたということです。
聖徳太子と推古天皇の取り組みによって、
日本は
「力の強さ」だけでなく、
「考え方や決まり」で動く国へ
大きく一歩進みました。
クイズ③
次のうち、冠位十二階と十七条の憲法の目的として正しいものはどれでしょう?
- 天皇だけがすべてを決めるため
- 豪族どうしを戦わせるため
- 決まりや考え方で国をまとめるため
正解は 3 です。
👉 二つとも、争いを減らし、決まりによって国を治めることを目指して作られました。
小野妹子と遣隋使|中国との交流が国を変えた
飛鳥時代の国づくりを進めるうえで、
外国との交流 はとても大切な役割を果たしました。
その中心となったのが、遣隋使(けんずいし) と
その使いとして活躍した 小野妹子(おののいもこ) です。
遣隋使とは何か
遣隋使とは、
日本から 中国の隋(ずい) へ送られた公式の使節団のことです。
当時の中国は、法律や制度、文化がとても進んだ国でした。
日本は、隋から学ぶことで、
自分たちの国づくりに生かそうと考えたのです。
小野妹子のはたらき
小野妹子は、
遣隋使(607年)として中国に渡り、
日本の考えを伝え、中国の制度や文化を学びました。
有名なのが、
「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」
という手紙です。
これは、
「日本の天皇が、中国の皇帝に手紙を送る」
という意味で、
日本が 対等な立場で外交をしようとした ことを表しています。
中国から何を学んだのか
遣隋使によって、日本は次のようなことを学びました。
- 国を治めるための制度
- 役人の仕組み
- 文字や考え方
- 仏教や建築の技術
これらは、
のちの 大化の改新 や 律令国家 につながっていきます。
なぜ外国と交流する必要があったのか
飛鳥時代の日本は、
国内の争いを減らし、
安定した国を作る必要がありました。
そのために、
すでに進んだ国のしくみを学ぶことが、
とても重要だったのです。
小野妹子と遣隋使の活躍は、
日本が外の世界に目を向け、
学びながら成長しようとした姿を表しています。
クイズ④
次のうち、遣隋使を送った目的として正しいものはどれでしょう?
- 中国と戦うため
- 中国の進んだ制度や文化を学ぶため
- 古墳を中国に広めるため
正解は 2 です。
👉 日本は、隋の進んだ国づくりや文化を学び、自分たちの国づくりに生かそうとしました。
蘇我氏の力と豪族どうしの対立
飛鳥時代の前半、日本の政治では、
豪族(ごうぞく) とよばれる有力な一族が大きな力をもっていました。
その中でも、とくに強い力をもっていたのが 蘇我氏(そがし) です。
蘇我氏はどんな一族だったのか
蘇我氏は、
天皇のそばで政治を行い、
国の重要な仕事をになっていた一族です。
とくに 仏教を積極的に取り入れた ことで知られています。
仏教を広めることで、
新しい考え方や文化を国に取り入れ、
政治を安定させようとしました。
この点で、蘇我氏は、
外国の文化を受け入れることに前向きな一族だったと言えます。
なぜ蘇我氏は大きな力をもったのか
蘇我氏が力をもった理由には、
いくつかのポイントがあります。
- 天皇の近くで政治を行っていた
- 外国との交流や仏教にくわしかった
- 他の豪族よりも多くの人や土地を支配していた
こうした力を背景に、
蘇我氏は、
国の政治を大きく動かす存在になっていきました。
豪族どうしの対立
しかし、蘇我氏の力が強くなりすぎると、
他の豪族たちは不満をもつようになります。
「一つの一族だけが政治を思いどおりにするのはよくない」
と考える人が増えていったのです。
このようにして、
飛鳥時代の政治は、
豪族どうしの対立 をかかえるようになりました。
この対立は、
やがて 大きな政治の変化 へとつながっていきます。
蘇我氏の力と、その限界を知ることは、
次に起こる 乙巳の変 や 大化の改新 を理解するための、
大切なポイントになります。
クイズ⑤
次のうち、蘇我氏について正しいものはどれでしょう?
- 狩りや採集だけで生活していた一族
- 古墳時代より前に滅びた一族
- 飛鳥時代に強い力をもち、仏教を広めた一族
正解は 3 です。
👉 蘇我氏は、飛鳥時代に大きな力をもち、仏教を広めながら政治を行った豪族です。
中大兄皇子と中臣鎌足|乙巳の変と大化の改新
飛鳥時代の政治を大きく変える出来事が、
乙巳の変(いっしのへん) と 大化の改新(たいかのかいしん) です。
この改革を進めた中心人物が、
中大兄皇子(なかのおおえのおうじ) と
中臣鎌足(なかとみのかまたり) でした。
中大兄皇子と中臣鎌足とは
中大兄皇子は、のちに 天智天皇 となる人物で、
強いリーダーシップをもって国を変えようとしました。
中臣鎌足は、政治の考え方や計画を支えた人物で、
のちに 藤原鎌足 と名のるようになります。
二人は力を合わせ、
「一部の豪族が政治を思いどおりにする社会」
を変えようと考えました。
乙巳の変とは何か
乙巳の変とは、
蘇我氏を政治の中心から退けた出来事 です。
蘇我氏の力が強くなりすぎたことで、
国の政治がかたよってしまっていました。
中大兄皇子と中臣鎌足は、
この状態を変えるため、
大きな決断をします。
これが乙巳の変です。
この出来事によって、
豪族が好き勝手に政治を動かす時代は終わりに近づきました。
大化の改新で何が変わったのか
乙巳の変のあとに進められた改革が、
大化の改新 です。
大化の改新では、
次のような考え方が大切にされました。
- 国の土地や人々は、天皇のものである
- 豪族が勝手に支配してはいけない
- 国が決まりを作って治める
これは、
天皇を中心とした国づくり を本格的に進めるための改革でした。
この改革によって、
日本は少しずつ、
法律や制度にもとづいて動く国へと変わっていきます。
大化の改新は、
のちの 奈良時代の国づくり につながる、とても重要な一歩でした。
クイズ⑥
次のうち、大化の改新の目的として正しいものはどれでしょう?
- 天皇を中心に、決まりにもとづいて国を治めるため
- 豪族がもっと自由に土地を支配するため
- 外国との交流をすべてやめるため
正解は 1 です。
👉 大化の改新は、天皇を中心に、国の決まりで政治を行うための改革でした。
大化の改新のあと、日本はどう変わっていったのか
― 壬申の乱・大宝律令・税のしくみ ―
大化の改新(645年) によって、
日本では天皇を中心とした国づくりが始まりました。
しかし、国のしくみは一度の改革で完成したわけではありません。
その後も、
争いや改革をくり返しながら、
少しずつ国の形が整えられていきました。
壬申の乱(672年)|大海人皇子と大友皇子の争い
壬申の乱(672年) は、
天皇の位をだれがつぐのかをめぐって起こった、
飛鳥時代最大の内乱です。
この争いの中心人物が、
- 大海人皇子(おおあまのおうじ)
- 大友皇子(おおとものおうじ)
です。
中大兄皇子(天智天皇)が亡くなったあと、
天皇の位をめぐって対立が起こりました。
近江宮にいた大友皇子に対し、
大海人皇子は東国の豪族たちの力を集めて戦います。
この争いに勝ったのが 大海人皇子 で、
のちに 天武天皇 となります。
壬申の乱は、
「だれが国の中心なのか」をはっきりさせる必要性を、
強く示した出来事でした。
天武天皇の政治|強い天皇中心の国づくり
天武天皇は、
再び争いが起こらない国をつくるために、
天皇の力を強くする政治 を進めました。
- 天皇の立場をはっきりさせる
- 豪族の力をおさえる
- 国を決まりで治める準備を進める
この天武天皇の政治が、
のちの法律づくりにつながっていきます。
大宝律令(701年)|法律による国づくりの完成
天武天皇の考えを受けつぎ、
国のしくみを完成させたのが
大宝律令(701年) です。
この法律づくりで中心となった人物が、
藤原不比等(ふじわらのふひと) です。
藤原不比等は、
中臣鎌足の子で、
国の制度づくりに大きく関わりました。
大宝律令によって、
- 役所のしくみ
- 役人の仕事
- 人々のくらしのルール
が、細かく決められました。
これにより日本は、
法律にもとづいて動く国、
つまり 律令国家(りつりょうこっか) へと進みます。
税のしくみ|租・庸・調(そ・よう・ちょう)
大宝律令では、
税のしくみ も整えられました。
当時の税の基本が、
租・庸・調 です。
- 租:田からとれた米をおさめる
- 庸:労働で国に貢献する
- 調:布や特産物をおさめる
この時代には、
お金ではなく、
米・物・働き で税をおさめていました。
このしくみによって、
国は都をつくり、
政治や文化を安定して行えるようになりました。
飛鳥時代から奈良時代へ
645年(大化の改新)
→ 672年(壬申の乱)
→ 701年(大宝律令)
という流れを通して、
日本は
天皇を中心とした、法律のある国 へと成長しました。
この国づくりの完成形が、
次の 奈良時代 です。
飛鳥時代は、
改革と争いをくり返しながら、
日本が国として形をととのえていった
とても重要な時代 だったのです。
飛鳥文化と仏教の広がり
飛鳥時代の文化を語るうえで欠かせないのが、
仏教(ぶっきょう) の広がりです。
この時代、日本の文化や考え方は、
それまでとは大きく変わっていきました。
なぜ仏教が取り入れられたのか
仏教は、もともと中国や朝鮮半島から伝わった宗教です。
飛鳥時代の人々は、
仏教を 新しい考え方 として受け入れました。
仏教には、
- 人は助け合って生きること
- 心をおだやかに保つこと
- 争いを減らすこと
といった教えがあります。
これらは、
豪族どうしの争いが多かった当時の日本にとって、
国をまとめるうえで役立つ考え方でした。
政治と仏教の深い関係
仏教は、信仰だけでなく、
政治とも深く結びついて 広まりました。
聖徳太子や蘇我氏は、
仏教の教えを取り入れることで、
人々の心をまとめ、国を安定させようとしたのです。
そのため、
仏教をまつる 寺 が各地に建てられました。
寺は、祈りの場であると同時に、
学びや文化の中心でもありました。
飛鳥文化の特徴
仏教の広がりとともに生まれた文化を、
飛鳥文化 と呼びます。
飛鳥文化の特徴は、
- 仏像や寺が作られるようになった
- 外国の影響を受けた新しい芸術が生まれた
- 建築や彫刻の技術が高まった
といった点です。
とくに、仏像の顔つきや服の表現には、
それまでの日本にはなかった、
おだやかで落ち着いた雰囲気が見られます。
文化が社会を変えた
仏教と飛鳥文化の広がりは、
人々のくらしや考え方にも影響を与えました。
目に見える力だけでなく、
心や道徳を大切にする考え方 が、
少しずつ社会に根づいていったのです。
この文化の広がりは、
次の時代である 奈良時代 の文化へと、
そのまま受けつがれていきます。
法隆寺の木造建築はなぜ今も残っているのか
飛鳥時代の建築の中で、世界的にも特に有名なのが
法隆寺(ほうりゅうじ) です。
法隆寺は、奈良県にある寺で、7世紀ごろに建てられた と考えられています。
この法隆寺がすごい理由は、
1300年以上前に建てられた木造の建物が、今も残っている ことです。
そのため、法隆寺は
「世界最古級の現存する木造建築」 として知られています。
木でできているのに、なぜ長く残ったの?
木は、火や雨、虫に弱い材料です。
それなのに、なぜ法隆寺の建物は、これほど長い間残っているのでしょうか。
その理由は、飛鳥時代の人々の高い建築技術 にあります。
まず一つ目の理由は、
木の性質を生かしている ことです。
木は、石のようにかたすぎず、
力が加わると少ししなります。
この「しなやかさ」が、
地震のときに建物がこわれにくくするのです。
二つ目の理由は、
くぎをほとんど使わない工法 です。
法隆寺の建物は、
木と木を組み合わせて作られています。
これにより、地震のゆれを受け流しやすくなっています。
五重塔のひみつ
法隆寺の中でも特に有名なのが、五重塔(ごじゅうのとう) です。
五重塔は、とても高い建物ですが、
これまで大きな地震でも倒れていません。
その理由の一つが、
五重塔の中心にある 心柱(しんばしら) です。
心柱は、建物の中心を通る太い柱で、
地面までしっかりのびています。
地震が起きると、
五重塔は、
- 外の部分がゆれる
- 心柱が別の動きをする
というように、
ゆれを分散するしくみ になっています。
この構造が、
五重塔を地震に強くしているのです。
法隆寺から分かる飛鳥時代のすごさ
法隆寺の建築には、
- 仏教の考え方
- 中国や朝鮮半島の技術
- 日本の木の文化
が組み合わされています。
これは、飛鳥時代の日本が、
外国から学びつつ、
自分たちの工夫を加えていたことを示しています。
法隆寺は、
ただ古い建物が残っているだけではありません。
飛鳥時代の人々の知恵と技術が、今も形として残っている証拠
なのです。
クイズ⑦
次のうち、法隆寺の木造建築が長く残っている理由として正しいものはどれでしょう?
- 石で作られていて、とても重いから
- 木のしなやかさや、くぎを使わない工夫があるから
- 地震が一度も起きなかったから
正解は 2 です。
👉 木の性質を生かした構造や、五重塔の工夫によって、長く残ることができました。
飛鳥時代の国宝|今に残る大切な文化財
飛鳥時代には、仏教の広がりとともに、
すぐれた建築や仏像、美術品が数多く作られました。
その中でも、特に価値が高いもの は、
国によって 国宝(こくほう) に指定されています。
国宝とは、
日本の歴史や文化を考えるうえで、とても重要な宝物 のことです。
飛鳥時代の国宝は、
当時の人々の考え方や高い技術を、今に伝えてくれます。
ここでは、代表的な飛鳥時代の国宝を見ていきましょう。
法隆寺金堂(こんどう)|飛鳥時代の信仰の中心
法隆寺金堂 は、
飛鳥時代に建てられた建物で、
現存する世界最古級の木造建築の一つ です。
金堂は、
仏さまをまつるための、寺の中心となる建物です。
法隆寺金堂には、
飛鳥時代の人々の信仰の深さが表れています。
木の組み方や屋根の形には、
外国の技術を学びながら、
日本の風土に合う工夫が見られます。
この建物そのものが、
飛鳥時代の建築技術を伝える国宝 なのです。
法隆寺五重塔(ごじゅうのとう)|技術の結晶となる国宝建築
法隆寺五重塔 も、国宝に指定されています。
この塔は、
高さがありながら、
1300年以上も倒れずに残ってきました。
五重塔の中には、
心柱を使った地震に強い構造があり、
飛鳥時代の人々が
自然の力を理解し、建築に生かしていた ことが分かります。
宗教的な意味だけでなく、
技術の面でもとても価値の高い国宝です。
釈迦三尊像(しゃかさんぞんぞう)|飛鳥仏の代表作
釈迦三尊像 は、
法隆寺金堂に安置されている国宝の仏像です。
中央にお釈迦さま、
左右に脇侍(わきじ)と呼ばれる仏さまが立つ形で、
これを 三尊形式 といいます。
この仏像は、
顔つきがやや細く、
おだやかな表情をしているのが特徴です。
これは 飛鳥仏(あすかぶつ) と呼ばれる、
飛鳥時代の仏像の代表的な姿です。
金属をとかして形を作る高度な技術から、
当時の職人のすぐれた力が分かります。
玉虫厨子(たまむしのずし)|絵と工芸が合わさった国宝
玉虫厨子 は、
法隆寺に伝わる国宝で、
小さな仏像をおさめるための厨子(ずし)です。
この厨子の最大の特徴は、
側面にえがかれた 絵 です。
仏教のお話が、
色あざやかにえがかれています。
かつては、
玉虫の羽を使ってかざられていたと考えられており、
飛鳥時代の人々の
美しさへのこだわり が伝わってきます。
国宝から分かる飛鳥時代のすごさ
これらの国宝から分かることは、
飛鳥時代の人々が、
- 仏教を大切にしていたこと
- 高い建築・美術の技術をもっていたこと
- 外国の文化を学び、自分たちのものにしていたこと
です。
国宝は、
教科書にのっている「名前」だけでなく、
当時の人々の思いや工夫がつまった証拠 なのです。
飛鳥時代の遺跡と都のようす
飛鳥時代の政治や文化の中心は、
現在の 奈良県・飛鳥地方 にありました。
この地域には、飛鳥時代のようすを伝える遺跡が数多く残っています。
飛鳥地方とはどんな場所?
飛鳥地方は、
山や川に囲まれた自然の多い土地です。
ここに、天皇の住まい(宮)や役所、寺が集まり、
日本の政治と文化の中心地 となりました。
当時の都は、
奈良時代の平城京のように整った形ではなく、
天皇が移るたびに宮も移動することが多かったと考えられています。
飛鳥寺|日本最初の本格的な仏教寺院
飛鳥寺(あすかでら) は、
日本で最初の本格的な仏教寺院とされています。
蘇我氏が中心となって建てた寺で、
仏教が国の中で大切にされていたことが分かります。
飛鳥寺の跡からは、
建物の土台や仏像の一部などが見つかっており、
飛鳥時代の寺のつくりを知る手がかりになっています。
遺跡から分かること
飛鳥地方の遺跡を調べることで、
次のようなことが分かります。
- 政治と宗教が近い関係にあったこと
- 外国の文化を取り入れた都づくりが始まっていたこと
- 飛鳥時代が「国の中心」をもつ時代だったこと
遺跡は、
文字の記録が少ない飛鳥時代を知るための、
とても大切な証拠なのです。
飛鳥時代から奈良時代へ何がつながったのか
飛鳥時代は、
そのまま次の 奈良時代 へとつながっていきます。
この二つの時代は、
国づくりが 準備から完成へ 向かう流れとして考えると分かりやすいです。
飛鳥時代で整えられたこと
飛鳥時代には、
次のような土台が作られました。
- 天皇を中心とした政治の考え方
- 決まりや制度で国を治めるしくみ
- 仏教を中心とした文化
- 外国から学ぶ姿勢
これらはすべて、
奈良時代の国づくりに欠かせない要素でした。
奈良時代への大きな変化
奈良時代になると、
平城京 という大きな都がつくられます。
都を一つの場所に定め、
政治を安定させようとしたのです。
飛鳥時代に始まった改革や文化が、
奈良時代で 本格的な国の形 になります。
その意味で飛鳥時代は、
日本が国として立ち上がるための
大切な準備期間 だったと言えるでしょう。
飛鳥時代を深く学べる自由研究アイデア
飛鳥時代は、
「国づくり」「政治」「文化」「技術」が大きく変わった時代です。
自由研究では、事実+自分の考え を組み合わせると、
とてもよいまとめになります。
アイデア① 聖徳太子はどんな国をつくろうとしたのか
聖徳太子の行った政策を調べてみましょう。
- 冠位十二階は何のためにつくられたのか
- 十七条の憲法にはどんな考えがこめられているのか
- 今の社会と似ているところはあるか
👉 社会科+道徳につながる研究です。
アイデア② 冠位十二階を色で整理してみよう
冠位十二階の特徴を、
色・位・意味 でまとめてみましょう。
- 紫・青・赤・黄・白・黒の意味
- 「生まれ」ではなく「能力」で評価する考え方
- なぜ色で表したのか
表や図を使うと、とても分かりやすくなります。
アイデア③ 十七条の憲法を今の言葉にしてみよう
十七条の憲法を一つずつ調べ、
自分の言葉で言いかえて まとめてみましょう。
- なぜ「和」を大切にしたのか
- 今の学校や社会で大切だと思う条文はどれか
👉 「考える力」が評価されやすいテーマです。
アイデア④ 小野妹子と遣隋使はなぜ大切だったのか
日本が中国から何を学ぼうとしたのかを調べます。
- 遣隋使で学んだこと
- なぜ外国と交流する必要があったのか
- 学んだことは国づくりにどう生かされたのか
地図を使ってまとめるのもおすすめです。
アイデア⑤ 蘇我氏はなぜ力をもち、なぜ倒れたのか
蘇我氏の活躍と限界を調べてみましょう。
- 仏教を広めた理由
- 他の豪族との対立
- 乙巳の変につながった原因
👉 歴史の「流れ」が分かる研究になります。
アイデア⑥ 大化の改新で日本はどう変わったのか
改革の前と後を比べてみましょう。
- 改革前の政治の問題点
- 大化の改新で変えようとしたこと
- 天皇中心の政治とは何か
図で「ビフォー・アフター」を作ると◎。
アイデア⑦ 法隆寺はなぜ今も残っているのか
法隆寺の木造建築に注目した研究です。
- 木造建築の特徴
- くぎを使わない工法
- 五重塔が地震に強い理由
👉 理科・技術とつながる人気テーマです。
アイデア⑧ 飛鳥時代の国宝を調べてみよう
記事に出てきた国宝を中心に調べます。
- 法隆寺金堂
- 法隆寺五重塔
- 釈迦三尊像
- 玉虫厨子
「どんなところがすごいのか」を
自分の言葉でまとめるのがポイントです。
アイデア⑨ 飛鳥時代はどんな時代だったと言えるか
記事全体をふり返り、
- 飛鳥時代の一番の特徴
- 古墳時代・奈良時代とのちがい
- 自分が一番すごいと思ったこと
をまとめてみましょう。
まとめ型研究としてとても良いテーマです。
おさらいクイズで飛鳥時代をふり返ろう
ここまで学んだ飛鳥時代の大切なポイントを、
クイズで確認してみましょう。
クイズ①
飛鳥時代の政治の大きな特徴として、正しいものはどれでしょう?
- 豪族がそれぞれ勝手に国を治めていた
- 天皇を中心に、決まりや制度で国をまとめようとした
- 狩りや採集が国の中心だった
正解は 2 です。
👉 飛鳥時代は、天皇を中心に国を治めようとする動きが進んだ時代です。
クイズ②
冠位十二階について、正しい説明はどれでしょう?
- 生まれの身分だけで役人のえらさを決める制度
- 土地の広さによって位が決まる制度
- 冠の色によって、能力や働きを表した制度
正解は 3 です。
👉 冠位十二階は、冠の色で位を表し、能力を重視する制度でした。
クイズ③
十七条の憲法で、とくに大切にされていた考え方はどれでしょう?
- 争いをさけ、和を大切にすること
- 強い者がすべてを決めること
- 外国との交流をやめること
正解は 1 です。
👉 十七条の憲法では、「和を大切にすること」が最初に示されています。
クイズ④
遣隋使として活躍し、中国との交流を進めた人物はだれでしょう?
- 中臣鎌足
- 小野妹子
- 蘇我馬子
正解は 2 です。
👉 小野妹子は、遣隋使として中国にわたり、日本の考えを伝えました。
クイズ⑤
大化の改新の目的として、もっとも正しいものはどれでしょう?
- 豪族が自由に土地を支配できるようにするため
- 天皇を中心に、国の決まりで政治を行うため
- 仏教を国から追い出すため
正解は 2 です。
👉 大化の改新は、天皇中心の国づくりを進めるための改革でした。
クイズ⑥
法隆寺の木造建築が、長い年月残っている理由として正しいものはどれでしょう?
- 木のしなやかさや、くぎを使わない工夫があるから
- 石だけで作られていて、とても重いから
- 地震が一度も起きなかったから
正解は 1 です。
👉 木の性質を生かした構造や五重塔の工夫が、建物を守ってきました。
クイズ⑦
次のうち、飛鳥時代の国宝として正しい組み合わせはどれでしょう?
- 法隆寺金堂・釈迦三尊像
- 吉野ヶ里遺跡・土偶
- 大仙陵古墳・はにわ
正解は 1 です。
👉 法隆寺金堂や釈迦三尊像は、飛鳥時代を代表する国宝です。
まとめ
飛鳥時代は、日本で本格的な国づくりが始まった時代です。
天皇を中心に国をまとめようとする考え方が生まれ、
決まりや制度によって政治を行おうとする動きが進みました。
聖徳太子と推古天皇は、
冠位十二階や十七条の憲法を通して、
争いを減らし、話し合いを大切にする国を目指しました。
また、小野妹子を遣隋使として中国に送り、
外国の進んだ制度や文化を学びました。
その後、蘇我氏の力が強くなりすぎたことで、
中大兄皇子と中臣鎌足による改革が行われ、
大化の改新へとつながっていきます。
これにより、天皇を中心とした政治がさらに進められました。
飛鳥時代には、仏教が広まり、
法隆寺の木造建築や釈迦三尊像、玉虫厨子など、
今も残るすぐれた文化や国宝が生まれました。
これらは、当時の人々の高い技術と考え方を今に伝えています。
飛鳥時代でつくられた政治や文化の土台は、
次の奈良時代へと受けつがれ、
日本の国の形を完成させていきます。
飛鳥時代は、日本が国として歩み始めた大切な時代 だったのです。
この記事を書いた人
西田 俊章(MOANAVIスクールディレクター/STEAM教育デザイナー)
公立小学校で20年以上、先生として子どもたちを指導し、教科書の執筆も担当しました。
現在はMOANAVIを運営し、子どもたちが「科学・言語・人間・創造」をテーマに学ぶ場をデザインしています。



