
お米は、いつから日本で食べられるようになったのでしょう?
村やルール、社会は、いつ生まれたのでしょう?
そのヒントがつまっているのが 弥生時代 です。
弥生時代は、狩りや採集が中心だったくらしから、
稲作を行い、村で協力して生きる社会へと大きく変わった時代です。
この教材では、
弥生時代のくらし・道具・遺跡・卑弥呼や邪馬台国まで、
小学生・中学生にも分かりやすく、ていねいに解説していきます。
「なぜそうなったのか」を考えながら、一緒に学んでいきましょう。
弥生時代とは?いつから始まり、どんな特徴がある時代なのか
みなさんは「弥生時代(やよいじだい)」と聞いて、どんなことを思い浮かべますか?
お米を作るようになった時代、村ができた時代、というイメージをもっている人も多いかもしれません。
弥生時代は、日本の歴史の中で、人々のくらしや考え方が大きく変わりはじめた、とても大切な時代です。
弥生時代は、今からおよそ 2400年前ごろから1700年前ごろまで 続いたと考えられています。
それまで続いていた縄文時代のあとに始まり、次の古墳時代へとつながっていきます。
「弥生時代」という名前は、東京にある「弥生町(やよいちょう)」という場所で、この時代の土器が最初に見つかったことからつけられました。
つまり、弥生という名前は人の名前でも出来事の名前でもなく、発見された場所の名前 なのです。
弥生時代のいちばん大きな特徴は、人々のくらしの中心が「食べ物をとる」ことから「食べ物を育てる」ことへ変わった ことです。
縄文時代の人々は、狩りや漁、木の実集めなど、自然の中にあるものをいただいて生活していました。
一方、弥生時代になると、稲(いね)を育ててお米を作る「稲作(いなさく)」が広がっていきます。
稲作が始まったことで、人々の生活は大きく変わりました。
田んぼを作るためには、同じ場所に住み続ける必要があります。
そのため、弥生時代の人々は、移動しながら生活するのではなく、村を作って定住する ようになっていきました。
また、お米は一度にたくさん収穫でき、長い間保存することもできます。
これにより、「食べ物が足りない日」と「食べ物がたくさんある日」の差が生まれました。
その結果、食べ物を管理する人や、仕事の役割が分かれるようになり、社会のしくみ が少しずつ形づくられていきます。
このように弥生時代は、ただ時代の名前が変わっただけではありません。
「どう生きるか」「どう協力するか」「どう分け合うか」など、人間の生き方そのものが変わり始めた時代だったのです。
クイズ①
次のうち、弥生時代の大きな特徴として もっとも正しいもの はどれでしょう?
- 石を使った道具だけを使っていた
- 狩りや採集だけで生活していた
- 稲作が広がり、村に住む人が増えた
正解は 3 です。
👉 弥生時代には稲作が広がり、人々は村を作って定住するようになりました。これが縄文時代との大きなちがいです。
縄文時代と弥生時代のちがいをわかりやすく比べてみよう
弥生時代をより深く理解するためには、その前の 縄文時代 と比べてみることがとても大切です。
なぜなら、弥生時代は「まったく新しい時代」というよりも、縄文時代のくらしから少しずつ変化して生まれた時代 だからです。
まず、食べ物の手に入れ方を比べてみましょう。
縄文時代の人々は、森や海、川など自然の中で、狩り・漁・木の実集めを行って生活していました。
自然の恵みに大きく頼っていたため、季節や天気の影響を強く受けていました。
一方、弥生時代になると、稲作が広がり、お米を育てて収穫する生活が始まります。
自分たちで食べ物を「作る」ようになったことで、生活は安定しやすくなりましたが、同時に、田んぼの世話や水の管理など、計画的に働く力 が必要になりました。
次に、住まいの違いです。
縄文時代の住居は、主に竪穴住居で、集落はありましたが、人々は比較的自由に移動していました。
弥生時代になると、田んぼの近くに村を作り、同じ場所に長く住む「定住」が進みます。
これにより、人と人とのつながりが強くなり、協力し合う社会 が生まれていきました。
道具や土器にも違いがあります。
縄文土器は、火に強く、煮炊きに向いた形をしていて、模様がとても豊かです。
それに対して弥生土器は、形がすっきりしていて、食べ物を保存したり運んだりするのに向いています。
この違いからも、くらしの目的が変わったことが分かります。
さらに大きな違いは、人と人との関係です。
弥生時代には、食べ物や土地をめぐって、村どうしの争いが起こることもありました。
そのため、周りに堀をめぐらせた村や、見張りをする仕組みも登場します。
便利で安定した生活の一方で、新しい問題 も生まれていったのです。
このように、縄文時代と弥生時代の違いを比べると、
弥生時代は「くらしが進歩した時代」であると同時に、
「人間関係や社会が複雑になり始めた時代」だったことが分かります。
クイズ②
次のうち、縄文時代と弥生時代のちがい として正しいものはどれでしょう?
- 弥生時代には稲作が広がり、定住する人が増えた
- 縄文時代には鉄の道具が広く使われていた
- 弥生時代の人々は狩りや採集だけで生活していた
正解は 1 です。
👉 弥生時代には稲作が広がり、田んぼの近くに村を作って定住する生活が進みました。
弥生時代の最大の特徴「稲作」と米作りのはじまり
弥生時代を語るうえで、ぜったいに外せないのが 稲作(いなさく) です。
稲作とは、田んぼで稲を育て、お米を収穫する農業のことです。
この稲作が広まったことで、日本の人々の生活は大きく変わりました。
稲作は、日本で生まれたものではなく、大陸(中国や朝鮮半島)から伝わってきた と考えられています。
人の移動や交流によって、新しい技術や道具が少しずつ日本に伝えられました。
最初は九州北部を中心に広がり、長い時間をかけて日本各地へ広まっていきます。
稲作は、狩りや採集とはちがい、一年を通して計画的に行う仕事 です。
春には田んぼを整え、苗を植えます。
夏は水の量を調整し、草取りなどの世話をします。
秋になると稲を刈り取り、冬には次の年の準備をします。
このように、稲作には多くの手間がかかります。
一人だけではできないため、村の人たちが 協力して働くこと が必要になりました。
水をどう分けるか、作業をいつ行うかなど、話し合いも欠かせません。
こうして、弥生時代の人々は、自然と「相談する」「役割を分ける」ことを学んでいったのです。
また、お米は長く保存できるという大きな特徴があります。
これにより、食べ物が余ることもあれば、足りなくなることも出てきました。
その結果、お米を管理する人や、村をまとめる人が現れ、身分の差 が少しずつ生まれていきます。
稲作は、生活を安定させただけでなく、
人と人との関係や、社会のしくみまで変えてしまう力をもっていました。
弥生時代は、「農業が社会をつくる」ことがはっきり見える時代なのです。
クイズ③
次のうち、稲作が広がったことで起こった変化 として正しいものはどれでしょう?
- 人々は毎日移動しながら生活するようになった
- 村に定住し、協力して働く必要が生まれた
- 食べ物はその日にとれた分だけ食べるようになった
正解は 2 です。
👉 稲作では水の管理や作業の分担が必要なため、村に定住し、協力して働く社会が生まれました。
村ができ、社会が生まれた弥生時代のくらし
稲作が広がると、人々の生活は「家族ごと」から「村全体」へと広がっていきました。
田んぼを守り、収穫を安定させるためには、一人ひとりが勝手に動くのではなく、集団として行動することが大切だったからです。
こうして弥生時代には、はっきりとした形をもつ「村」が生まれていきました。
弥生時代の村は、田んぼの近くに作られることが多く、竪穴住居が集まって並んでいました。
村のまわりには、敵の侵入を防ぐための 堀(ほり) や柵(さく)が作られることもありました。
これは、村どうしの争いや、食べ物や土地をめぐるトラブルが増えていったことを表しています。
また、村の中では、役割の分担が進みました。
田んぼの世話が得意な人、道具を作るのが得意な人、村をまとめる人など、
それぞれの役割をもつ人々 が現れるようになります。
このことが、身分の差が生まれるきっかけにもなりました。
弥生時代の社会では、食べ物や土地を多く持つ人が力をもつようになります。
その結果、村の中で立場のちがいがはっきりし、
「命令する人」と「従う人」のような関係ができ始めました。
これは、便利な社会が生まれた一方で、不平等も生まれたことを意味しています。
さらに、村が大きくなると、ほかの村との関係も重要になります。
協力して物を交換することもあれば、争いになることもありました。
このような経験を通して、人々は ルールや話し合いの大切さ を学んでいったと考えられています。
弥生時代のくらしは、今の社会のはじまりとも言えるものです。
集団で生きることの良さと難しさを、人々が初めて本格的に経験した時代だったのです。
クイズ④
次のうち、弥生時代に村が作られるようになった理由 としてもっとも適切なものはどれでしょう?
- 狩りの獲物を追いかけるため
- 稲作を行い、田んぼを守る必要があったため
- 海の近くで漁をするため
正解は 2 です。
👉 稲作では田んぼの管理が必要なため、人々は同じ場所に住み、村を作るようになりました。
弥生時代の遺跡から何がわかる?くらしと社会の手がかり
弥生時代の人々のくらしは、文章では残っていません。
では、どうやって当時の生活や社会のようすを知ることができるのでしょうか。
その大きな手がかりになるのが 遺跡(いせき) です。
遺跡とは、昔の人々が住んだあとや、使っていた道具、建物の跡が残っている場所のことです。
弥生時代の遺跡からは、村のつくり、田んぼのあと、武器や土器などが見つかり、
「どんなくらしをしていたのか」「どんな社会だったのか」を考えるヒントになります。
吉野ヶ里遺跡はどこにある?何がわかる遺跡?
弥生時代の遺跡の中で、特に有名なのが 吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき) です。
吉野ヶ里遺跡は、佐賀県(九州地方) にあります。
この遺跡のすごいところは、
- 大きな村の跡
- まわりを囲む堀
- 物見やぐら(見張り台)
- お墓の場所
などが、まとまった形で見つかっている ことです。
これにより、弥生時代には
「村を守る仕組みがあったこと」
「身分や役割のちがいがあったこと」
「争いに備えていたこと」
などが、はっきり分かるようになりました。
吉野ヶ里遺跡は、
弥生時代の社会がどれくらい発達していたかを知る重要な場所
として、今も研究が続けられています。
日本各地に広がる弥生時代の遺跡
弥生時代の遺跡は、吉野ヶ里だけではありません。
日本各地で見つかっており、地域ごとの特徴も分かってきました。
たとえば、
- 登呂遺跡(静岡県)
→ 水田や住居の跡が見つかり、稲作のようすがよく分かる - 板付遺跡(福岡県)
→ 日本でも早い時期の稲作のあとが見つかっている - 唐古・鍵遺跡(奈良県)
→ 大きな集落と交流のようすが分かる
これらの遺跡の場所を見ると、
弥生時代の文化が 九州から本州へ少しずつ広がっていった ことも分かります。
遺跡の分布は、社会科の「地図」の学習とも深くつながっています。
遺跡を調べると、教科書以上のことが見えてくる
教科書では数行で書かれている弥生時代ですが、
遺跡を調べると、
- 人々の生活の工夫
- 村どうしの関係
- 社会が生まれる過程
など、たくさんのことが見えてきます。
遺跡は、
昔の人たちが残してくれた「無言のメッセージ」
とも言える存在なのです。
クイズ⑤
次のうち、吉野ヶ里遺跡がある都道府県 はどこでしょう?
- 佐賀県
- 静岡県
- 奈良県
正解は 1 です。
👉 吉野ヶ里遺跡は佐賀県にあり、弥生時代の大きな村のようすが分かる重要な遺跡です。
弥生土器と道具からわかる弥生時代の知恵と工夫
弥生時代の人々のくらしをくわしく知るためには、土器や道具 に注目することがとても大切です。
なぜなら、道具には「何のために使われたのか」「どんな生活をしていたのか」が、そのまま表れているからです。
弥生時代に使われていた土器は、弥生土器(やよいどき) と呼ばれます。
弥生土器は、前の時代の縄文土器と比べると、見た目がとてもシンプルです。
ごつごつした模様は少なく、形もすっきりしています。
これは、弥生土器が「かざるため」ではなく、
使いやすさを大切にして作られていた ことを表しています。
たとえば、煮炊き用、保存用、運ぶためなど、目的に合わせて形が工夫されていました。
弥生時代のくらしの中心は稲作でした。
そのため、収穫したお米を入れておくつぼや、
水や食べ物を運ぶための土器が多く作られました。
「たくさん作って、ためておく」生活に合った道具が必要だったのです。
また、弥生時代には、石だけでなく 金属の道具 も使われるようになります。
鉄や青銅(どう)で作られた道具は、石よりもかたく、長く使えるため、
農作業や武器として大きな力を発揮しました。
たとえば、鉄の道具を使うことで、
土を深く耕したり、木を切ったりすることができるようになります。
これは、農業の効率を上げ、村を大きくすることにもつながりました。
弥生土器や道具を見ていくと、
弥生時代の人々が
「どうすればくらしが楽になるか」
「どうすればみんなでうまく生きられるか」
を考えながら工夫していたことが分かります。
道具はただの物ではありません。
人の知恵と考え方が形になったもの なのです。
クイズ⑥
次のうち、弥生土器の特徴 として正しいものはどれでしょう?
- 模様が多く、かざりがとてもこまかい
- 使いやすさを考えた、シンプルな形をしている
- すべてお祭りのために作られていた
正解は 2 です。
👉 弥生土器は、煮る・保存するなど、実際の生活で使いやすい形が工夫されていました。
中国との交流と卑弥呼・邪馬台国のなぞ
弥生時代の日本は、国内だけでなく、中国などの大陸とも交流をもっていた ことが分かっています。
この交流は、弥生時代の社会が大きく成長していくうえで、とても重要な役割を果たしました。
中国との関係があったことは、二つの手がかりから分かります。
一つは 中国の歴史書に書かれた記録、もう一つは 実際に見つかった物(考古資料) です。
中国の歴史書の中で、日本(当時は「倭(わ)」と呼ばれていました)について書かれているのが、
『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』 です。
この書物には、倭の国々のようすや、中国との交流、そして 卑弥呼(ひみこ) という女性の王の存在が記されています。
卑弥呼は、多くの国をまとめる立場にあり、
争いが多かった倭の国々をおさめていた人物だと書かれています。
また、卑弥呼が治めていた国として登場するのが 邪馬台国(やまたいこく) です。
一方、文字の記録だけでなく、実物の証拠 も見つかっています。
それが、福岡県の 志賀島(しかのしま) で発見された 金印(きんいん) です。
この金印には、
「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」
という文字が刻まれています。
これは、中国(漢)が、倭にあった国の王を認めて与えた印だと考えられています。
金印の発見により、
弥生時代の日本には、中国と正式な関係を結んでいた国や王がいた ことが、
よりはっきり分かるようになりました。
魏志倭人伝という「文字の記録」と、
金印という「実物の証拠」の両方があることで、
弥生時代の日本と中国の交流は、想像ではなく、事実として考えられるもの になっているのです。
しかし、邪馬台国が 日本のどこにあったのか については、
今でもはっきりとは分かっていません。
九州にあったという説や、近畿地方にあったという説など、
さまざまな考えがあり、研究が続けられています。
このように、弥生時代は、
村のくらしが広がっただけでなく、
国と国との関係が生まれ始めた時代 でもありました。
中国との交流や卑弥呼の存在は、
日本が「国」へと変わっていく大切な一歩を示しています。
邪馬台国はどこにあった?九州説と近畿説
邪馬台国の場所については、今もはっきりした答えが出ていません。
そのため、研究者のあいだでは、いくつかの説が考えられています。
中でも有名なのが、九州説 と 近畿説 です。
九州説 は、邪馬台国が 九州地方にあった と考える説です。
魏志倭人伝には、中国から船で日本に来た道のりや距離がくわしく書かれており、
その内容をそのまま読み取ると、九州北部あたりにたどり着くと考えられます。
また、弥生時代の九州では、
吉野ヶ里遺跡のような大きな集落や、
中国との交流を示す遺跡や道具が多く見つかっています。
こうした点から、
「九州に邪馬台国があったとしてもおかしくない」
と考える人も多いのです。
一方で、近畿説 は、邪馬台国が 近畿地方にあった と考える説です。
近畿地方は、のちの古墳時代に大きな力をもつ地域になります。
そのため、
「弥生時代の終わりごろに力をもっていた国が、
そのまま日本の中心になっていったのではないか」
という考え方です。
また、近畿地方には、大きな古墳や重要な遺跡が多く残っています。
これらが、邪馬台国や卑弥呼の国とつながっている可能性があるとして、
近畿説を支持する人もいます。
このように、九州説にも近畿説にも、
それぞれ理由があり、決め手となる証拠はまだ見つかっていません。
だからこそ、邪馬台国の場所は、
今も研究が続く「歴史のなぞ」 なのです。
歴史には、すぐに答えが出ない問題もあります。
弥生時代の学びは、
「分からないことを、どう考えるか」
を学ぶことでもあります。
邪馬台国のなぞを考えることは、
歴史の面白さを感じる大きなきっかけになるでしょう。
クイズ⑦
次のうち、卑弥呼について中国の歴史書に書かれている内容 として正しいものはどれでしょう?
- 卑弥呼は狩りの名人だった
- 卑弥呼は一人で日本中を旅していた
- 卑弥呼は多くの国をまとめた王だった
正解は 3 です。
👉 中国の歴史書には、卑弥呼が人々をまとめ、国を治めていた王として記されています。
弥生時代は人々の「生き方」が大きく変わった時代
弥生時代は、道具やくらし方が変わっただけの時代ではありません。
人々の 考え方や生き方そのもの が、大きく変わり始めた時代でもありました。
縄文時代の人々は、自然の中で生き、必要な分だけをいただく生活をしていました。
一方、弥生時代になると、稲作によって食べ物を計画的に作り、
「将来のためにたくわえる」という考え方が生まれます。
これは、人間が自然との向き合い方を変えた大きな一歩でした。
また、村で暮らす人が増えたことで、
「自分一人がよければいい」という考え方は通用しなくなります。
水の使い方や作業の順番など、
みんなで決めて、みんなで守る 必要があったからです。
その一方で、社会が大きくなると、
立場のちがいや争いも生まれました。
食べ物や土地を多く持つ人が力をもち、
思い通りにならない人も出てきます。
便利さと同時に、問題も生まれるようになったのです。
このことは、今の社会にもつながっています。
ルールがあるから安心して生活できる一方で、
ルールが人をしばることもあります。
弥生時代は、社会をつくることの良さと難しさ を、人々が初めて強く感じた時代だったと言えるでしょう。
弥生時代の人々は、
「どうすればみんなで生きていけるのか」
を考えながら、試行錯誤をくり返していました。
その積み重ねが、今の日本社会の土台になっています。
クイズ⑧
次のうち、弥生時代の生き方の変化 を表しているものはどれでしょう?
- 自然にあるものだけをその日に使って生活していた
- 村で協力し、ルールを決めて生活するようになった
- いつも一人で移動しながら生活していた
正解は 2 です。
👉 弥生時代には村で協力し、話し合いやルールを大切にする社会が生まれました。
弥生時代を深く学べる自由研究アイデア
弥生時代は、「くらし・社会・人の考え方」が大きく変わった時代です。
自由研究では、事実を調べるだけでなく、「なぜ?」を考える ことがポイントになります。
ここでは、小学生・中学生が取り組みやすいテーマをいくつか紹介します。
アイデア① 縄文時代と弥生時代、どちらのくらしがよい?
縄文時代と弥生時代のくらしを比べて、
「自分だったらどちらの時代に生きたいか」を考えてみましょう。
・食べ物
・住まい
・働き方
・自由さ
などの項目ごとに表にまとめると、違いが分かりやすくなります。
最後に、自分の考えと理由を書けば、立派なまとめになります。
アイデア② 弥生時代の一日を想像してみよう
弥生時代の子どもや大人になったつもりで、
朝から夜までの生活 を想像してみましょう。
・朝は何をする?
・昼はどんな仕事がある?
・夜はどんな時間を過ごす?
教科書や資料集をもとに、絵や文章でまとめると、
当時のくらしがぐっと身近に感じられます。
アイデア③ 稲作は人の生き方をどう変えたのか
「稲作が始まる前」と「稲作が始まった後」で、
人々の生活や社会がどう変わったのかを調べてみましょう。
・食べ物の安定
・協力が必要になった理由
・身分の差や争い
などをキーワードにすると、
歴史と社会のつながりが見えてきます。
アイデア④ 弥生時代の遺跡から分かることを調べよう
吉野ヶ里遺跡や登呂遺跡など、
一つの遺跡を選んで調べてみましょう。
・どこにあるのか
・何が見つかっているのか
・そこから何が分かるのか
「遺跡は何を教えてくれるのか」という視点をもつと、
教科書より一歩深い研究になります。
アイデア⑤ 弥生時代の社会は今とどうつながっている?
弥生時代に生まれた
・村
・ルール
・役割分担
は、今の社会にも続いています。
学校や地域のルールと比べて、
「なぜルールが必要なのか」を考えてみるのもおすすめです。
おさらいクイズで弥生時代をもう一度確認しよう
ここまで読んで学んだ内容を、クイズでふり返ってみましょう。
よく考えてから答えてみてください。
クイズ①
弥生時代が始まったことで、日本のくらしで大きく変わったことはどれでしょう?
- 食べ物を育てる稲作が広がった
- 洞くつで生活する人が増えた
- 火を使わない生活になった
正解は 1 です。
👉 弥生時代には稲作が広がり、人々は食べ物を「育てて得る」生活をするようになりました。
クイズ②
縄文時代と比べたときの、弥生時代の社会の特徴として正しいものはどれでしょう?
- みんなが自由に移動して生活していた
- 狩りだけで食べ物を手に入れていた
- 村を作り、協力やルールが必要になった
正解は 3 です。
👉 稲作の広がりによって定住が進み、村で協力しながら生活する社会が生まれました。
クイズ③
弥生時代の遺跡を調べることで分かることとして、もっとも適切なものはどれでしょう?
- 人々のくらしや社会のしくみ
- 当時の人の名前のすべて
- 未来の出来事
正解は 1 です。
👉 遺跡からは、住まい・道具・村のようすなどが分かり、弥生時代の生活や社会を考える手がかりになります。
まとめ
弥生時代は、日本の人々のくらしや社会が大きく変わり始めた時代です。
稲作が広まったことで、人々は村に定住し、協力しながら生活するようになりました。
その一方で、身分の差や争いも生まれ、社会はより複雑になっていきます。
弥生土器や道具、各地の遺跡、中国との交流や卑弥呼の存在からは、
弥生時代が「ただ昔の時代」ではなく、
今の日本社会につながる考え方や仕組みの土台が作られた時代 であることが分かります。
弥生時代を学ぶことは、
「人はどのように集団で生きてきたのか」
「社会はどのように生まれたのか」
を考えることにつながります。
この記事を書いた人
西田 俊章(MOANAVIスクールディレクター/STEAM教育デザイナー)
公立小学校で20年以上、先生として子どもたちを指導し、教科書の執筆も担当しました。
現在はMOANAVIを運営し、子どもたちが「科学・言語・人間・創造」をテーマに学ぶ場をデザインしています。



