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昭和前期とは?日中戦争・太平洋戦争・終戦までをやさしく解説【小中学生向け・自由研究にもおすすめ】

「昭和」という時代はとても長く続きましたが、その前半は“戦争の時代”と呼ばれます。
昭和のはじめ、日本は世界恐慌の影響で経済がゆらぎ、人々のくらしが苦しくなりました。
やがて軍の力が強まり、戦争へと進んでいく中で、社会のしくみや学校の教育、家庭のあり方まで大きく変わっていきます。

戦時下では食べ物も衣服も足りず、子どもたちも働き手として動員されました。
それでも、人々はお互いを助け合い、希望の灯を消さずに生き抜こうとします。
この時代を学ぶことは、単に「戦争を知る」ことではなく、
“平和とは何か”“生きるとはどういうことか”を考えるきっかけになります。

この記事では、昭和前期の政治・経済・教育・文化・人々のくらしを通して、
戦争の時代に生きた人々の姿と、そこから生まれた「平和への誓い」をたどっていきます。


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  1. 昭和時代のはじまりと時代の空気
    1. 🌅 昭和の幕あけと新しい時代への期待
    2. 💸 世界恐慌と「昭和恐慌」――突然やってきた大不況
    3. 🌾 農村の苦しみと「米があっても食べられない」時代
    4. ⚖️ 政治の混乱と人々の不安
    5. 💬 庶民のくらしと希望の光
  2. 軍国主義の台頭と国民生活への影響
    1. ⚙️ 不安の中で力を求める社会
    2. 🕵️ 5・15事件 ― 軍人による「テロ」が始まった
    3. ❄️ 2・26事件 ― 国をゆるがせたクーデター
    4. 🛠️ 軍国主義ってどんな考え方?
    5. 👩‍🏭 庶民の生活にも広がった「戦う空気」
    6. 🕊️ それでも人々は希望を捨てなかった
    7. クイズ1
  3. 戦時下の社会と民衆のくらし
    1. 不安と緊張が広がる時代
    2. 国家総動員法と統制経済
    3. 配給制度のしくみ
    4. 闇市と生きる知恵
    5. 働く女性たちと子どもたち
    6. 疎開と別れ
    7. 空襲と避難生活
    8. 心のよりどころとなった文化
    9. 戦時下の人間らしさ
    10. クイズ2
  4. 教育と思想の変化
    1. 教育が「国のため」に変わっていった
    2. 教育勅語とは何だったのか
    3. 教育勅語の意味をわかりやすく
    4. 学徒出陣と学校の変化
    5. 家庭と社会の“思想”の変化
    6. それでも残った「教える心」
    7. クイズ3
  5. 日中戦争から太平洋戦争、そして終戦へ
    1. 盧溝橋事件――「短い戦い」のはずが長期戦へ
    2. 長びく戦争が社会を変える――総動員体制へ
    3. 国際関係の悪化――孤立と対立の深まり
    4. 1941年、開戦への決断
    5. 開戦直後の「勝利」と人々の高揚
    6. 転機――ミッドウェー海戦とガダルカナル
    7. じわじわと締めつけられる祖国――潜水艦封鎖と本土空襲
    8. 沖縄戦――本土に迫る地上戦
    9. 原子爆弾とソ連参戦――決断を迫る夏
    10. ポツダム宣言受諾――「耐え難きを耐え」
    11. 玉音放送――終戦の声を聴いた日
    12. 戦争が残したもの――失われた日常と、芽生えた誓い
    13. 子どもたちが知っておきたいこと
    14. クイズ4
  6. 終戦と新しい時代のはじまり
    1. 焼け野原からの再出発
    2. GHQの占領と民主化のはじまり
    3. 新しい憲法が生まれる
    4. 新しい学校と子どもたちの学び
    5. 朝鮮戦争と特需景気
    6. 国際社会への復帰
    7. 焼け跡から生まれた希望
    8. クイズ5
  7. 🏙 自由研究アイデア集|昭和前期の暮らしと社会の変化を調べる
    1. 「配給制度の一日体験」
    2. 「闇市から生まれた日本経済」
    3. 「戦時下のファッション」
    4. 「教科書が変わった!戦前と戦後のちがい」
    5. 「学徒出陣とは? 若者たちの選択」
    6. 「疎開日記を再現してみよう」
    7. 「戦時中の歌が伝えた“希望”」
    8. 「紙芝居・映画・落語で生き抜いた人々」
    9. 「家の中の戦争記録をたどる」
    10. 「私の町にも防空壕(ぼうくうごう)があった?」
    11. 「戦争と科学技術」
    12. 「“平和をつくる”技術とアイデア」
    13. ✏️ まとめの書き方アドバイス
  8. おさらいクイズ
    1. クイズ1
    2. クイズ2
    3. クイズ3
    4. クイズ4
    5. クイズ5
  9. まとめ

昭和時代のはじまりと時代の空気

🌅 昭和の幕あけと新しい時代への期待

1926年(昭和元年)、大正天皇が亡くなり、皇太子だった裕仁(ひろひと)親王が即位して「昭和時代」が始まりました。
「昭和」という元号には、**“国民が力を合わせて、平和で明るい世をつくる”**という意味がこめられています。

当時の人びとは、「これからは明るい時代が来る」と期待していました。
街ではモダンな洋服を着た「モボ・モガ(モダンボーイ・モダンガール)」が歩き、映画やジャズ、カフェー文化が流行。
ラジオ放送もはじまり、都会では活気ある雰囲気に包まれていました。

けれども、その明るさの影には、経済の不安と社会のきしみが少しずつ広がっていったのです。


💸 世界恐慌と「昭和恐慌」――突然やってきた大不況

1929年、アメリカで株の大暴落が起こり、世界中の貿易がストップしました。
この出来事を「世界恐慌(せかいきょうこう)」といいます。

日本もその影響を大きく受けました。特に苦しんだのが農村です。
日本の主な輸出品だった「生糸(きいと)」の値段が急に下がり、農家の収入が激減しました。

多くの家庭が借金をかかえ、
「娘を身売りに出す」「子どもに十分な食事を与えられない」
といった悲しい現実が広がっていきました。

この時期を「昭和恐慌(しょうわきょうこう)」と呼びます。


🌾 農村の苦しみと「米があっても食べられない」時代

農家の多くは、自分の土地を持たず、地主の土地を借りて耕す「小作農(こさくのう)」でした。
収穫した米の半分以上を地主に納めなければならず、
たとえ豊作でも、自分の家で食べられる分はほんのわずかでした。

しかも、税金や生活費はすべて現金で払わなければならなかったため、
米を食べる前に「売る」しかありません。
そのため、**“米があっても食べられない”**という不思議な時代が生まれたのです。

これが、日本の農村をさらに貧しくし、社会の不満を高めていきました。


⚖️ 政治の混乱と人々の不安

昭和の初めごろは、政治も安定していませんでした。
大正時代のような「民主主義の風」は弱まり、
政治家どうしの争い、政党の分裂、汚職事件が相次ぎました。

そこに「国のために立て直そう」と考える軍人や国家主義者が力を持ち始め、
やがて日本は次第に「軍の力が政治を動かす」方向へと進んでいきます。

このころから、**新聞やラジオで“国を守れ”“アジアを導け”**といった言葉が目立つようになりました。
多くの国民はまだ戦争を望んでいませんでしたが、
「不安な時代を乗り越えるには強い国が必要だ」と思う人が増えていったのです。


💬 庶民のくらしと希望の光

一方で、都会にはまだ人々の暮らしの楽しみも残っていました。
浅草の映画館ではコメディ俳優・**エノケン(榎本健一)**が笑いを届け、
人々は束の間の明るさに救われていました。

ラジオでは歌やニュースが流れ、家族がひとつの机を囲んで耳をかたむけました。
「大変だけど、がんばればきっと良くなる」
――そんな小さな希望を、人々は胸に抱いて生きていたのです。


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軍国主義の台頭と国民生活への影響

⚙️ 不安の中で力を求める社会

昭和初期、日本は世界恐慌による大不況に苦しんでいました。
働いても暮らしがよくならず、農村では飢えに苦しむ人が増え、
「このままでは国が立ち行かない」と多くの国民が感じていました。

そんな中で、

「政治家ではもう日本を救えない」
「軍人なら国を強くしてくれるはずだ」

という思いが広がっていきました。

このように、人々が「力のある政治」を求めるようになった時代に、
日本は少しずつ“軍の力が政治を動かす”国へと変わっていったのです。


🕵️ 5・15事件 ― 軍人による「テロ」が始まった

1932年(昭和7年)、日本の政治を大きく変える事件が起こります。
それが「5・15事件(ごーいちごじけん)」です。

この日、海軍の青年将校たちが首相官邸に押し入り、
当時の首相 犬養毅(いぬかいつよし) を銃で撃ち殺しました。

彼らは「政治家は国をダメにした。軍が国を救うべきだ」と主張しました。
多くの国民は事件を悲しみましたが、
一方で「軍人は国のために命をかけた」という声も多く、
犯人たちに対して同情や賛美の声が広がりました。

この「軍人を許してしまった空気」が、
のちの日本の方向を決定的に変えてしまうのです。


❄️ 2・26事件 ― 国をゆるがせたクーデター

5・15事件から4年後の1936年(昭和11年)。
今度は陸軍の青年将校たちが立ち上がりました。

それが「2・26事件(にーにーろくじけん)」です。

彼らは約1,400人の兵を率いて東京の中心部を占拠し、
大臣や高官の家を次々に襲撃。
「天皇のために悪い政治家を倒す」と主張して、
政府の中心を乗っ取ろうとしたのです。

しかし天皇はこの反乱を強くしりぞけ、
数日後には鎮圧されました。
事件に関わった将校たちは逮捕・処刑されましたが、
この事件をきっかけに、軍部の意見をおそれて政治家が口を出せなくなるようになります。

こうして、日本は本格的に「軍国主義」の国へと進んでいきました。


🛠️ 軍国主義ってどんな考え方?

**軍国主義(ぐんこくしゅぎ)**とは、
「国を強くするためには軍の力が何より大事だ」と考える思想です。

このころの日本では、

  • 教科書にも「忠君愛国(ちゅうくんあいこく)」が強調され、
  • 学校では天皇への忠誠を教え、
  • 新聞や映画は「国のために命をささげよう」という内容に変わっていきました。

人々は「戦うこと=立派なこと」と信じるようになり、
「平和を求める声」を出すことは、危険なことになってしまいました。


👩‍🏭 庶民の生活にも広がった「戦う空気」

軍の影響力が強くなるにつれて、
庶民の暮らしもだんだんと「戦争の準備」に向かっていきます。

  • 鉄や紙、布などの資源は「軍需品(ぐんじゅひん)」として回収
  • 学校の運動会では「行進」や「訓練」が増える
  • 「ぜいたくは敵だ」「欲しがりません勝つまでは」という標語が町中に張り出される

女性や子どもも、「銃後(じゅうご)の守り」として
軍を支える役割を担うようになりました。

このころの日本では、「国のために生きる」ことが当然とされ、
個人の自由や意見はだんだんと失われていきました。


🕊️ それでも人々は希望を捨てなかった

そんな厳しい時代でも、
人々は歌や映画、家族との時間を大切にしながら生きていました。
浅草の演芸場では笑いが起こり、
ラジオでは流行歌が流れ、
学校では子どもたちが将来の夢を語っていました。

たとえ世の中がどんなに暗くなっても、

「自分たちの手で未来を変えたい」
そう願う人々の思いが、静かに息づいていたのです。


クイズ1

1936年に起こった「2・26事件」とは、どんな出来事だったでしょう?

  1. 政治家が経済政策を失敗した事件
  2. 陸軍の青年将校たちがクーデターを起こした事件
  3. 海軍と陸軍が対立して戦った事件

正解は 2 です。
陸軍の若い将校たちが「国を正そう」として政府を武力で倒そうとしました。
この事件がきっかけで、政治よりも軍が力を持つようになっていきました。


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戦時下の社会と民衆のくらし

不安と緊張が広がる時代

1937年(昭和12年)、日本はついに中国との全面的な戦争に突入しました。
「日中戦争」のはじまりです。最初は「すぐに終わる」と考えられていましたが、戦いは長引き、やがて日本全体が「戦争を中心に動く社会」へと変わっていきました。

町には軍服姿の兵士が増え、新聞やラジオは毎日のように戦況を報じました。
街灯が減らされ、夜には明かりを消す「灯火管制(とうかかんせい)」が行われ、人々の暮らしには不安と緊張が漂っていました。


国家総動員法と統制経済

1938年に「国家総動員法(こっかそうどういんほう)」という法律ができました。
この法律は、国のためならすべての人・もの・お金を自由に使えるというものです。
つまり、国民の生活や仕事までもが国家の命令で動かされる時代になったのです。

政府は「戦争に勝つためには、国民が一つにならなければならない」と考え、食べ物や衣服、金属、ガソリンまでもが厳しく管理されました。
市場で自由に買い物をすることはできなくなり、「配給制(はいきゅうせい)」が始まります。


配給制度のしくみ

配給制度とは、国が決めた量だけを国民に分ける仕組みのことです。
米や砂糖、石けんなどはすべて配給券と引きかえでもらいました。
たとえば、1人が1か月にもらえる米の量はほんの数キロ。パンや芋でお腹を満たす家庭も多くありました。

配給の量は戦争が長引くほど減っていき、ついには「お米は兵士を優先に」という理由で、一般の家庭にはほとんど届かなくなります。
そこで人々は裏でこっそり取引をする「闇市(やみいち)」を利用するようになりました。


闇市と生きる知恵

闇市では、国の決まりをこえて品物を売り買いできました。
値段は高くても、米や野菜、石けんなどが手に入るため、庶民にとっては“生きるための最後の手段”でした。

闇市は大きな駅前や焼け跡などに自然と生まれ、戦後も長く続きます。
お金のかわりに物を交換する「物々交換」も行われ、農家の人は米と衣服を、町の人は靴やせっけんを交換して暮らしていました。

人々は「国のルール」だけでは生きていけない現実を感じながらも、家族を守るために工夫を重ねたのです。


働く女性たちと子どもたち

戦争が長引くにつれて、たくさんの男性が兵士として戦地に行きました。
そのため、町や工場では女性や子どもが働き手として動員されるようになります。

「銃後(じゅうご)」という言葉があります。
戦地(前線)で戦う兵士を支える“家の中の戦士”という意味で、女性たちは「銃後の守り」と呼ばれました。

女学生たちは工場で兵器の部品をつくり、主婦たちは「国防婦人会(こくぼふじんかい)」という団体で兵士に送る衣服や慰問袋を縫いました。
農村では「女子挺身隊(じょしていしんたい)」として農作業に参加する女性も増えました。

学校では授業のかわりに畑仕事をしたり、空襲にそなえた訓練をしたりしました。
子どもたちの多くが「戦争は正しい」「お国のためにがんばる」と教えられ、遊びの中でも兵隊ごっこが流行するようになります。


疎開と別れ

1944年ごろになると、アメリカ軍の空襲が激しくなり、東京や大阪などの大都市では多くの子どもたちが地方へ避難しました。
これを「疎開(そかい)」といいます。

学校単位で列車に乗り、遠くの農村や親戚の家で暮らす子どもたち。
親と離れて暮らす寂しさ、慣れない田舎の生活、そして戦争への不安。
それでも、疎開先の人々はできる限りの愛情を注ぎ、子どもたちを支えました。

疎開生活は決して楽ではありませんでしたが、農作業を手伝いながら自然の中で過ごす時間は、戦火の中の「静かな日常」でもありました。


空襲と避難生活

1945年になると、空からの爆撃が日本中に広がりました。
東京大空襲では、わずか一晩で10万人以上が命を落とし、家を失った人は数百万人にのぼりました。

夜になると、町の明かりはすべて消され、家の窓には黒い布がかけられました。
防空壕(ぼうくうごう)という穴を掘って避難する家庭も多く、
空襲警報が鳴るたびに、人々は布団をかかえて走りました。

食べ物はますます足りなくなり、雑草やカエルまで食べたという記録もあります。
それでも、人々は「負けてはいけない」と励まし合い、毎日を必死に生きていました。


心のよりどころとなった文化

戦時中の日本でも、人々は小さな楽しみを見つけていました。
ラジオから流れる「戦時歌謡」は兵士や家族を励まし、
『露営の歌』『誰か故郷を想わざる』などの名曲は多くの人の心を支えました。

また、紙芝居や映画、落語なども完全には消えず、子どもたちの心を和ませました。
浅草や京都では、戦火の合間にも舞台や演芸が続けられ、
観客は涙を流しながらも笑顔を取り戻したといわれています。

戦争の時代であっても、人々は「文化を消さない」努力を続けていました。
それは、希望の火を絶やさないための、小さな抵抗でもあったのです。


戦時下の人間らしさ

戦争の中でも、人と人との絆は消えませんでした。
配給の少ない中で隣の家と食べ物を分け合い、
空襲の夜に知らない人同士が助け合いました。

教師は子どもたちに「命を大切に」「仲間を思いやれ」と教え、
母親たちは「もうすぐきっと平和が戻る」と信じて子どもを励ましました。

戦争の影にあったのは、恐怖や飢えだけでなく、
「生きることをあきらめない人々の強さ」でもあったのです。


クイズ2

戦争中、人々が国の決まりをこえて品物を売り買いした場所を何と呼んだでしょう?

  1. 配給所
  2. 闇市
  3. 防空壕

正解は 2 です。
闇市は、配給だけでは足りない生活を支える“もう一つの市場”でした。
戦後の復興期にも長く続き、日本の経済を動かす原点の一つとなりました。


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教育と思想の変化

教育が「国のため」に変わっていった

昭和初期から戦時中にかけて、日本の教育は大きく変わっていきました。
もともと学校は「読み・書き・計算」を教え、社会で生きていく力を育てる場でした。
しかし、戦争が近づくにつれて、教育は国に役立つ人間を育てることが目的になっていきます。

教室の前には天皇の写真(御真影)と教育勅語の掛け軸が置かれ、
朝の始まりには全員で最敬礼。先生は子どもたちに「命をかけて国を守る心」を教えました。

「自分のことより国のために尽くす」
「親孝行をし、先生にしたがい、天皇をうやまう」
――これが、当時の子どもに求められた“理想の姿”だったのです。


教育勅語とは何だったのか

明治23年(1890年)に発布された「教育勅語(きょういくちょくご)」は、
戦時中も教育の中心として使われ続けました。
子どもたちは全文を暗唱できるように練習し、学校行事でも唱和しました。

以下がその全文です(現代仮名づかいに直して掲載します)。


教育勅語(全文)

朕(ちん)惟(おも)うに、我が皇祖皇宗(こうそこうそう)国を肇(はじ)むること宏遠(こうえん)に、
徳を樹(た)つること深厚なり。
我が臣民、克(よ)く忠に、克く孝に、億兆(おくちょう)心を一にして世々厥(そ)れ美を済(な)せるは、
此(こ)れ我が国体の精華にして、教育の淵源(えんげん)また実に此(ここ)に存す。

汝臣民、父母に孝に、兄弟に友に、夫婦相和し、朋友(ほうゆう)相信じ、
恭倹(きょうけん)己れを持し、博愛衆に及ぼし、学を修め業を習い、
以て智能を啓発し、徳器を成就し、進んで公益を広め、世務を開き、
常に国憲を重んじ、国法にしたがい、一旦緩急あれば義勇公に奉じ、
以て天壌無窮(てんじょうむきゅう)の皇運を扶翼(ふよく)すべし。

是の如きは独り朕が忠良の臣民たるのみならず、
また以て汝祖先の遺風を顕彰するに足らん。

斯(ここ)に於(おい)て、天地の神明(しんめい)に誓い、
爾(なんじ)臣民と倶(とも)に謹みてこの道を遵(したが)い、
以て永遠に其(その)徳を篤(あつ)からしめんことを庶(こいねが)う。

明治二十三年十月三十日
御名御璽(ぎょめいぎょじ)


教育勅語の意味をわかりやすく

この文章はむずかしく感じますが、簡単に言うとこうです。

  • 親や兄弟、友だちを大切にしなさい
  • 勉強をして、社会の役に立つ人になりなさい
  • 国の法律を守り、天皇のために力を尽くしなさい

つまり、「よい人間であること」と「国のために尽くすこと」が同じ意味だと教えています。

一見すると立派な教えですが、戦争が激しくなるとこの考え方が**「国のために命をささげるのが美徳」**という方向にゆがめられていきました。
先生たちも国の命令に逆らうことができず、教育現場は“国家の兵士を育てる場”になっていきます。


学徒出陣と学校の変化

1943年(昭和18年)、大学生までもが戦地に送られる「学徒出陣(がくとしゅつじん)」が始まりました。
学生たちは学問をやめて軍服に着替え、出発のときには「同期の桜」などの歌を歌って見送られました。

教室には空席が増え、残った学生たちも軍需工場に動員されました。
授業よりも訓練、教科書よりも武器――教育は完全に戦争の道具になっていたのです。

それでも、なかには先生や学生の中に「学ぶ心を絶やしてはいけない」と信じる人もいました。
夜のわずかな時間に勉強を続けた生徒たちもおり、
「いつか平和な時代に、もう一度学びたい」という思いが戦後の教育再生につながっていきます。


家庭と社会の“思想”の変化

学校だけでなく、家庭や社会全体でも「忠義」「節約」「忍耐」が強調されました。
家では「ぜいたくは敵だ」と言い聞かされ、
子どもたちはおもちゃを我慢し、母親は衣服を縫い直して使いました。

新聞や雑誌には「お国のために働くことが家族の誇り」と書かれ、
芸能人や作家も戦意を高める内容の作品をつくるように求められました。

こうした社会の空気の中では、
「平和が大切」「戦争はまちがっている」と言うことができませんでした。
多くの人が心の中に不安や疑問を抱えながらも、
「国のためにがんばらなければ」と自分を納得させて生きていたのです。


それでも残った「教える心」

戦時中でも、子どもを思う先生たちの気持ちは消えませんでした。
「勉強できる時間が少なくても、人の痛みを知ることが本当の学びだ」
そう話した教師の手記が残っています。

爆撃の音が近づく中でも、先生は黒板にチョークを走らせ、
「命を大切にしなさい」と書いた――
その姿に、子どもたちは静かにうなずいたといいます。

教えること、学ぶこと。
それはどんな時代でも、希望の火を灯す行為だったのです。


クイズ3

教育勅語で特に重視された考え方として、最も正しいものはどれでしょう?

  1. 自分の幸せを追求すること
  2. 国や天皇のために尽くすこと
  3. 他の国と平等に助け合うこと

正解は 2 です。
教育勅語は「国のために生きること」を中心に教え、
戦争が進むにつれて「個人より国家」という思想を強めていきました。


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日中戦争から太平洋戦争、そして終戦へ

盧溝橋事件――「短い戦い」のはずが長期戦へ

1937年7月7日、北京近くの盧溝橋(ろこうきょう)で日本軍と中国軍が衝突しました。最初は小さな発砲事件でしたが、現地での誤解や強硬な対応が重なり、戦いは一気に拡大。日本は「すぐに終わるはず」と考えて増援を送りましたが、中国は広い国土と大勢の兵士、さらに各地の民衆の抵抗を背景に粘り強く戦い、戦争は長期化します。
戦線は北から上海・南京、さらに中部や南部へと広がり、都市はたびたび空襲を受けました。兵士だけでなく、一般の人々も大きな被害を受け、戦争は日常の風景を容赦なく壊していきました。

長びく戦争が社会を変える――総動員体制へ

戦争が長引くと、国は兵士・工場・食料・お金、あらゆる資源を戦いに向ける必要が出てきます。1938年の国家総動員法で、労働力や物資は国の管理下に入りました。学校では軍事教練が増え、工場では女性や少年も働き手として動員されます。
「ぜいたくは敵だ」「欲しがりません勝つまでは」という標語が街じゅうに貼られ、配給制度が始まって食べ物や衣類は“決められた量”しか手に入りません。家族の食卓には、米の代わりに麦や芋、すいとんが並ぶようになりました。ラジオは戦況や国策を伝え、新聞は検閲を受け、反対意見は表に出にくくなっていきます。

国際関係の悪化――孤立と対立の深まり

日本は1940年、ドイツ・イタリアと三国同盟を結びました。これにより、英米との対立はさらに深まります。日本は資源の少ない国です。戦争を続けるには石油や鉄が必要でした。南方(東南アジア)には油田やゴム産地があり、日本はそこへ勢力を伸ばそうとします。
一方、アメリカやイギリス、オランダは日本への石油・鉄の輸出を止めるなどの制裁を強化しました。石油が止まると海軍も航空機も動かせません。国内では「外交で解決を」という声と、「今のうちに打って出るしかない」という声が対立し、政府・軍の会議は連日深夜まで続きました。

1941年、開戦への決断

1941年秋、日米交渉は難航します。互いの条件は大きく食い違い、妥協の道は細くなるばかり。石油の残量は、平時なら数年分でも、戦時に備えた備蓄としては心もとない水準でした。
12月、日本はついに武力で状況を変えようと決めます。日本時間の12月8日未明、海軍はハワイ・真珠湾を奇襲。ほぼ同時にマレー半島・フィリピンなど南方にも進攻しました。こうして太平洋戦争が始まります。

開戦直後の「勝利」と人々の高揚

開戦から数か月、日本軍は目を見張る速さで進みました。イギリス領マレーの攻略、シンガポール陥落、オランダ領東インド(現在のインドネシア)での油田地帯の確保。新聞は連日のように「大勝利」を大きな文字で伝え、街には日の丸の旗、ラジオからは勇ましい行進曲。
兵士の家族や子どもたちは、手紙や慰問袋で前線を支えました。人々は「これで物資が手に入る」「必ず勝てる」と信じ、厳しい暮らしを我慢しながら日々を送ります。

転機――ミッドウェー海戦とガダルカナル

しかし、戦いの流れは1942年半ばから大きく変わります。6月、ミッドウェー海戦で日本は4隻の航空母艦を失いました。熟練の搭乗員も同時に多く失い、海軍航空戦力は回復が難しい打撃を受けます。
その後のガダルカナル島の戦い(1942〜43)では、補給線が伸び切った日本軍が苦しい戦いを強いられました。兵士たちは弾薬だけでなく食糧さえ不足し、現地のジャングルで熱病や飢えと闘いながら撤退を余儀なくされます。
このころから、米軍は圧倒的な工業力と造船・航空生産力を背景に、航空母艦・戦闘機・輸送船を次々送り出しました。日本は守るべき戦線が広すぎて、各地の補給が追いつきません。

じわじわと締めつけられる祖国――潜水艦封鎖と本土空襲

海では米軍の潜水艦が日本の輸送船を次々に沈めました。南方からの石油や鉱石は届きにくくなり、国内の工場は燃料不足に悩みます。
1944年以降、サイパン・テニアン・グアムなどが相次いで米軍に占領されると、B-29爆撃機が日本本土まで飛来できるようになりました。工場地帯や都市が空襲を受け、人々は夜になると灯りを消し、空襲警報におびえる日々。1945年3月の東京大空襲では、一晩で多くの命と家が奪われ、焼け出された人々が焼跡や駅へ押し寄せました。
地方の町や村でも空襲があり、学校は疎開学園となって子どもたちは農作業や防空訓練に参加。母親や少女たちは工場や農村で働き、「銃後」の役割を果たし続けました。

沖縄戦――本土に迫る地上戦

1945年4月、沖縄に米軍が上陸します。日本の本土に最も近い島での激しい地上戦が始まりました。住民を巻き込んだ戦闘は長期化し、壕(ごう)に隠れて暮らす日々、食料や水の不足、医療の欠如――。子どもや女性を含む多くの民間人が犠牲となりました。
この戦いは「もし本州でも同じような地上戦になれば、被害は計り知れない」という現実を政府や国民にはっきりと示します。

原子爆弾とソ連参戦――決断を迫る夏

1945年8月6日、広島に原子爆弾。街は一瞬で炎と衝撃に飲み込まれ、無数の命が奪われました。続く8月9日には長崎にも原爆が投下されます。
同じ8月9日、ソ連が日ソ中立条約を破って満州へ侵攻。北からの新たな戦線が開かれ、日本は軍事的にも外交的にも出口を失います。
政府内では「戦い続けるべきだ」という声と、「これ以上の犠牲は出せない」という声が激しくぶつかりました。補給は尽き、都市は焼け、食べ物も薬も足りない。国民生活は限界に達しています。

ポツダム宣言受諾――「耐え難きを耐え」

連合国は「日本に無条件降伏を求める」ポツダム宣言を突きつけていました。受け入れれば戦争は終わりますが、受け入れない場合、さらなる破壊が続きます。
8月14日深夜、御前会議と呼ばれる天皇臨席の会議で、ついに「受諾」の決断が下されました。「国民の命を救い、国を存続させるにはこれしかない」。それは苦しく、重い選択でした。

玉音放送――終戦の声を聴いた日

1945年8月15日正午、ラジオから天皇の声が流れました。これが「玉音放送(ぎょくおんほうそう)」です。
難しい古い言葉で語られたその内容には、戦争を終えること、国民の苦難を思うこと、そしてこれからの道を静かに歩むことが述べられていました。
家の中で、工場で、焼け跡で、避難先で――人々は耳を澄ませ、涙を流しました。「戦争が終わった」。安堵と喪失、悔しさと希望が入り混じった瞬間です。父や兄を失った家、家や町を失った家族、傷ついた心と体。けれど、人々は「ここからやり直すしかない」と静かに立ち上がっていきました。

戦争が残したもの――失われた日常と、芽生えた誓い

戦争は多くの命、人々の夢、街の景色を奪いました。けれど同時に、人々の中には「二度と同じ過ちをくり返さない」という強い思いが芽生えます。
焼け跡で始まった小さな商い、闇市での物々交換、家族や近所で分け合う食べ物。助け合いの記憶は、のちの復興と成長の原動力になっていきます。やがて日本は新しい憲法を持ち、国際社会に復帰し、平和と繁栄を目指す道を歩み始めました。

子どもたちが知っておきたいこと

「戦争の歴史」は、兵器や作戦の話だけではありません。食卓がどう変わったか、学校で何を教わったか、家族がどう暮らしたか――。一人ひとりの生活の上に、戦争は降りかかってきました。
歴史を学ぶことは、当時の人々の涙と努力を思い、今の平和を自分ごととして守ることにつながります。100年前と同じ失敗をしないために、私たちは事実を知り、考え続ける必要があります。

クイズ4

太平洋戦争の流れを大きく変えた「転機」として最も知られている海戦はどれでしょう?

  1. ミッドウェー海戦
  2. マレー沖海戦
  3. 連合艦隊のトラック島空襲

正解は 1 です。
ミッドウェー海戦(1942年6月)で日本は主力空母を失い、熟練搭乗員の損失も重なって航空戦力が大きく低下しました。ここから戦況は徐々に不利へ傾き、守勢と消耗の局面が続いていきます。


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終戦と新しい時代のはじまり

焼け野原からの再出発

1945年8月15日、玉音放送によって日本の戦争は終わりました。
けれど、平和が戻ったからといってすぐに幸せな生活に戻れるわけではありませんでした。

東京、大阪、名古屋、広島、長崎――
日本中の大都市は爆撃で焼け野原になり、家を失った人があふれていました。
駅の構内や焼け跡で寝る人、闇市で食べ物を探す人、
親を失った子どもたちも多く、「浮浪児(ふろうじ)」と呼ばれる子どもたちが街をさまよいました。

食料は足りず、配給は途絶えがち。
お金の価値も不安定で、米1合と引き換えに大切な着物を手放す人もいました。
それでも人々は「もう戦争には戻らない」という思いで、少しずつ立ち上がっていったのです。


GHQの占領と民主化のはじまり

戦後、日本はしばらくのあいだ**GHQ(連合国軍総司令部)**の管理下に入りました。
トップはアメリカのマッカーサー元帥。
彼は、敗戦国の日本を「二度と戦争をしない平和な国」に変えるための改革を進めました。

GHQが行った主な改革は、次のようなものです。

  • 政治の民主化:選挙の自由が保障され、女性も初めて選挙に参加できるようになりました。
  • 教育の自由化:教育勅語が廃止され、「個人の尊重」や「平和教育」が重視されました。
  • 農地改革:地主の土地を買い上げ、小作農に分配。農民が自分の土地を持てるようになりました。
  • 財閥解体:一部の大企業に集中していた富を分散し、自由競争を進めました。

これらの改革によって、日本は政治も社会も「上からの命令で動く国」から、
「自分の意見を持ち、自由に考える国」へと変わっていきました。


新しい憲法が生まれる

最も大きな変化は、**日本国憲法の制定(1946年公布、1947年施行)**です。
それまでの大日本帝国憲法は、天皇を中心とする国家を前提にしていました。
新しい憲法では、主権が国民にあり、すべての人が平等であることが明記されました。

とくに大切な三つの原則が知られています。

  1. 国民主権:政治の決まりは国民が選んだ代表によって決める。
  2. 基本的人権の尊重:すべての人が自由に生きる権利を持つ。
  3. 平和主義:戦争をしない、軍隊を持たない、国際協調を重んじる。

第9条には、

「日本国民は、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使を永久に放棄する」
と書かれています。

これは、世界でもまれな「戦争をしないことを憲法で約束した国」という強い決意を示すものでした。


新しい学校と子どもたちの学び

戦前の教育が「国家に尽くす」ことを教えていたのに対し、
戦後の教育は「一人ひとりが自由に考える」ことを大切にしました。

1947年には教育基本法学校教育法が制定され、
小学校6年・中学校3年・高校3年の制度(6・3・3制)が生まれました。
男女共学が始まり、女の子も男の子も同じ教室で学べるようになります。

授業では「道徳」や「公民」のほか、「社会」「理科」などの教科が生まれ、
自由に意見を発表したり、調べたりする授業が広がりました。
「学ぶことは、自分をつくること」――
戦争を知る先生たちは、その思いを子どもたちに伝えました。


朝鮮戦争と特需景気

戦後の混乱はなかなかおさまりませんでしたが、1950年に起きた朝鮮戦争が大きな転機になります。
日本は直接戦ってはいませんでしたが、アメリカ軍の補給基地として物資の注文(特需)が急増。
これを「朝鮮特需」といいます。

この特需によって工場が再び動き始め、仕事が増え、
戦後の経済はようやく息を吹き返しました。
やがて日本製の鉄鋼・繊維・電化製品が世界に輸出されるようになり、
「もはや戦後ではない」と言われるまでに成長していきます。


国際社会への復帰

日本は長い間、敗戦国として国際社会から孤立していました。
しかし、努力と誠実な姿勢が認められ、1956年に国際連合に加盟
再び世界の一員として認められることになります。

同じ年、経済白書にはこう書かれました。

「もはや戦後ではない」

この言葉は、日本が戦争の傷跡を乗り越え、
未来へ進み始めたことを象徴しています。


焼け跡から生まれた希望

戦争を生き抜いた人々は、悲しみの中でも「次の世代に平和を残したい」と願いました。
焼け跡にたった一輪の花が咲くように、
学校が再開され、商店が建ち、子どもたちの笑い声が町に戻ってきます。

「戦争はもうこりごりだ」「平和な時代を築こう」
そんな声が国じゅうに広がりました。

戦争で失ったものは多くありましたが、
そこから生まれた“平和への誓い”が、今の日本の礎(いしずえ)となっているのです。


クイズ5

日本が国際連合に加盟したのはいつでしょう?

  1. 1945年
  2. 1956年
  3. 1964年

正解は 2 です。
1956年、日本は国連の80番目の加盟国となり、
戦争の反省を胸に「平和国家」として新しいスタートを切りました。


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🏙 自由研究アイデア集|昭和前期の暮らしと社会の変化を調べる

「配給制度の一日体験」

実際に当時の配給表を調べ、1日の食事を再現してみよう。
戦時中の料理本や家庭科資料を参考に「お米なし」「代用品料理(すいとん・芋・麦飯)」を体験。
→ どんな工夫がされていたのか、栄養バランスや家族の会話などをまとめる。

「闇市から生まれた日本経済」

戦後すぐの闇市(やみいち)を調べ、
なぜ禁止されていたのに広がったのか、商人たちは何を売っていたのかを調査。
→ “必要から生まれた経済のしくみ”を学ぶ。今のフリーマーケットやネット販売と比較しても面白い。

「戦時下のファッション」

戦時中の服装(もんぺ・国民服・学生服など)を写真資料で調べる。
→ なぜ布を節約する必要があったのか、素材や色にどんな意味があったのか。
当時の広告デザイン(ポスター)を再現しても良い。


「教科書が変わった!戦前と戦後のちがい」

国立国会図書館デジタルコレクションなどで戦前の教科書を調べ、
今の教科書と比べてどんな言葉や内容が違うかをまとめる。
→ “教育で社会がどう変わるか”を感じ取ることができる。

「学徒出陣とは? 若者たちの選択」

大学生や中学生がどんな思いで出征したのかを手記や新聞記事から調べる。
→ その中で“勉強とは何のためか”を自分なりに考察するレポートもおすすめ。

「疎開日記を再現してみよう」

当時の疎開児童の日記や写真を参考に、
自分がその時代にいたらどう感じたか、1週間の仮想日記を書く。
→ 家族や友人との別れ、田舎での生活、戦争の音――想像を通して共感力を育てる研究。


「戦時中の歌が伝えた“希望”」

『露営の歌』『誰か故郷を想わざる』『愛国行進曲』など、
戦時歌謡を聞き比べて、歌詞の内容や人々の気持ちを考える。
→ “希望を失わないための音楽”という視点でまとめると深い探究に。

「紙芝居・映画・落語で生き抜いた人々」

空襲の合間にも上演された娯楽文化を調べる。
→ どんな物語が人気だったのか、なぜ人々は笑いを求めたのか。
戦時下でも続いた「文化の灯」をテーマに、紙芝居づくりや朗読会にしてもよい。


「家の中の戦争記録をたどる」

家族や地域のお年寄りに戦争中の思い出をインタビュー。
→ 食べ物・学校・遊び・避難・家族との時間――記録をまとめて「地域の戦争資料」として保存する。

「私の町にも防空壕(ぼうくうごう)があった?」

地域の戦時遺構(防空壕・記念碑・戦没者慰霊碑など)を調べ、
地図にまとめる「戦争マップ」づくり。
→ 地元の歴史と全国の出来事がどうつながっていたかを可視化できる。


「戦争と科学技術」

戦時中に発達した技術(レーダー、飛行機、鉄鋼、通信など)が、
戦後どのように民間に転用されたのかを調べる。
→ 例:ゼロ戦の技術が自動車や新幹線開発にどう影響したか。
科学と倫理のバランスを考えるきっかけにもなる。

「“平和をつくる”技術とアイデア」

戦争を防ぐための今の技術(AI防災システム、国際通信、平和教育アプリなど)を紹介し、
昭和の時代との比較を通して「今の私たちができること」を提案。


✏️ まとめの書き方アドバイス

  • 当時の写真・資料・ポスターを引用して、見やすく構成する。
  • 「昔と今のちがい」「自分が感じたこと」を1ページにまとめると印象的。
  • 戦争の悲惨さだけでなく、「人が生きる力」「希望の光」も必ず入れる。

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おさらいクイズ

クイズ1

1937年に起こった「日中戦争」のきっかけとなった事件はどれでしょう?

  1. 二・二六事件
  2. 盧溝橋事件
  3. 真珠湾攻撃

正解は 2 です。
北京近くの盧溝橋で起きた銃撃事件がきっかけとなり、日本と中国の全面戦争へと発展しました。


クイズ2

戦争中に、食べ物や生活用品を国が分けて配る制度を何と呼んだでしょう?

  1. 配給制度
  2. 物々交換制度
  3. 闇市制度

正解は 1 です。
配給制度では、米や砂糖、衣服などを「配給券」と引きかえにもらいました。


クイズ3

「教育勅語」で重視された考え方として正しいものはどれでしょう?

  1. 自分の幸せを優先する
  2. 国や天皇のために尽くす
  3. 学校で自由に意見を言う

正解は 2 です。
教育勅語では「忠孝」と「国家への奉仕」が美徳とされ、教育の中心に据えられました。


クイズ4

太平洋戦争の転機となった海戦はどれでしょう?

  1. ミッドウェー海戦
  2. サイパン海戦
  3. ガダルカナル海戦

正解は 1 です。
ミッドウェー海戦(1942年)で日本は主力空母を失い、戦局が不利になりました。


クイズ5

日本が国際連合に加盟して、国際社会に復帰したのはいつでしょう?

  1. 1945年
  2. 1956年
  3. 1964年

正解は 2 です。
1956年、日本は国連に加盟し、「平和国家」として新しい道を歩み始めました。


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まとめ

昭和前期は、日本が急速に変わり、そして深く傷ついた時代でした。
世界恐慌の影響で経済が苦しくなり、人々の不安の中から軍の力が強まっていきました。
やがて日本は中国へ進出し、太平洋戦争へと突き進みます。

「国のため」「天皇のため」という言葉のもとで、
人々の暮らしは配給・統制にしばられ、自由に意見を言うことも難しくなりました。
それでも、子どもたちや家族は小さな楽しみを見つけ、助け合いながら生き抜いていました。

1945年の終戦は、多くの悲しみとともに、「平和を取り戻す第一歩」でもありました。
焼け野原から始まった日本の復興は、人々の努力と希望のたまものです。

昭和前期の歴史を学ぶことは、「平和のありがたさ」を知ることです。
同じあやまちをくり返さないために、
あの時代に生きた人々の思いを受け継ぎ、これからの未来をどうつくるかを考えていきましょう。


この記事を書いた人
西田 俊章(MOANAVIスクールディレクター/STEAM教育デザイナー)
公立小学校で20年以上、先生として子どもたちを指導し、教科書の執筆も担当しました。
現在はMOANAVIを運営し、子どもたちが「科学・言語・人間・創造」をテーマに学ぶ場をデザインしています。

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