教育は未来をつくる
教育とは何なのでしょうか。
これに対する明確な定義を示すことは難しいです。
教育とは何かを考えるということは、人間とは何かということを考えるということに等しいです。
この哲学的な難題に対する定義を示せなくとも、教育に携わる人間は少なくとも自分なりの定義をもつべきであると考えています。
教育とは未来をつくることであると私は考えています。
すべての国民が、この国の未来に対する責任を負わなければならない以上、教育は社会全体で行われなければならないものであり、その未来は社会全体が思い描くものでなければなりません。
当然のことながら、教育に対する責任もまた社会全体で負うべきものなのです。
未来への投資
教育の成果はすぐには表れません。
しかし、決して後回しにしてはいけないものなのです。
社会が困難な状況に陥っているときほど、成果がすぐに表れるものに注力しがちでありますが、困難な状況を根本から解決することができるのは教育なのです。
教育はあくまでも未来を見据えて行わなければならない、いわば未来への投資だと言えます。
教師とは何か
教育とは誰もが行うことのできるものです。
教育の責任を社会全体が負う以上、教育は誰もが行わなければならないことでもあります。
では、教師とはいったい何なのでしょうか。
教師とは、学校という制度の中で、特殊な環境において教育を行う専門家であると私は考えています。
学校は、子ども時代の大半の時間を過ごす場所であり、教育にとって大切な役割を担わなければなりません。
教師はそこで専門の技術を駆使して教育を行い、よりよい市民を育て、よりよい社会のための礎を築かなければならないのです。
教育技術と教育理論
教師が用いる教育技術は、教育における片輪です。
もう一方は教育理論であり、教育は教育理論と教育技術の両輪によって進められるものです。
技術なき理論は直接的に何も生み出すことはなく、理論なき技術はそれを使う場がないのです。
教育理論は科学です。
科学であるというと唯一無二の絶対的なものであると捉えられがちですが、そうではありません。
科学とは、自然との対話、人との対話を通して合意形成がなされたものであり、その姿は流動的であり、常に更新されるものです。
変化に対応するものこそ科学なのです。
技術もまた、状況に合わせて適切に選択され、変化に対応するものです。
教育理論と教育技術はともに社会の変化に対応し、発展していくものでなければなりません。
では、社会は今どのような未来を描き、どのような変化の中にあるのでしょうか。
知識基盤社会における教育
かつて教育は印刷機や大量生産の工業製品のアナロジーで表されました。
これは当時の社会情勢をよく表しています。
知識の量が重要な学力要素であった社会においては、知識を効率的に伝達し、均質な市民を育成することが求められました。
この社会においては教育理論と教育技術を実践において法則化し、マニュアルを作成することも可能であったかもしれません。
しかし、社会は変化しています。
知識基盤社会と呼ばれる今日においては、知識は量よりも質が問われるようになりました。
この教育には絶対的なマニュアルは存在しません。
過去にうまくいった事例を集積し、次々に現れる困難な状況に対応していくことは重要ですが、それを過信して教育の法則を作ることに意味はないのです。
同じような状況で同じ教育の方法を用いても、同じ成果が得られないのが知識基盤社会における教育なのです。
ですから、私たちは子どものそばに寄り添い、その時々に応じた適切な支援を通して子どもと共に歩んでいくしかないのです。